ひと雫ふた葉 ーprimroseー
幾枚にも重ねられた書類を指で撫でる音が無音の室内の壁に吸い込まれていく────。
「……理事長、お客様です」
そんな静かな空気をドアの向こう側の声がかき消した。
書類を捲る手はすぐに止まり、どこか人を近づけさせないような雰囲気を纏った年配の男性は、眼鏡を押し上げながら視線をドアの方へと向ける。
「どうぞ」
その声にドアは開かれ、若い男女が中へと招き入れられた。
男女……特に女の方は余程緊張しているのか、表情を強張らせ背に隠した手を強く握りしめていた。
そんな女を気遣ってか、男の方が半歩前に出て笑顔をつくり挨拶を口にする。
「こんにちは。突然お邪魔してしまい申し訳ないです、ほんま。今日は少しお話を、と思いまして……──」
「どちら様かな」
場を和ませようとした男の言葉も、低く冷たい男性の一言に遮られてしまう。女の顔はますます強張り、それまで笑顔をつくっていた男も頬を引きつらせていた。
「すんません、自己紹介が遅れました。オレ、こういうもんです」
仕切り直し、そう言わんばかりにすぐ男は懐から名刺を取り出し、男性へと手渡す。男性もやっと立ち上がり、互いに名刺を交換し終えると男性の表情が変わった。
「日澄宗……寺院?」
「はい、そうですけど……」
渡された名刺を食い入るように見つめ男性が零した言葉に、男が不思議そうな顔をすると、男性は小さなため息を吐きながら椅子に深く座り直して言い放った。
「もう、帰ってくれ」
「は……!?」
突然告げられた言葉に理解が追いつかない、と言いたげな表情をする男女。しかしそれっきり男性は椅子ごと背を向け、完全に話ができない状態となってしまった。
執拗に問いただすわけにもいかず、2人は諦めて一言、
「……手間取らせてすんません。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
そう言って見えていないにも関わらず、一礼を残しその場を立ち去った。
遠のいていく2人分の足音を聞きながら男性は項垂れ、小さくため息を吐く。
「麗子……」
その呟きは誰の耳に入ることもなく、宙に溶け消えた────。