もふもふ後宮幼女は冷徹帝の溺愛から逃げられない ~転生公主の崖っぷち救済絵巻~
 地を這うような低い声はとうてい皇帝に侍る妃嬪(ひひん)には似つかわしくなく、愛紗(あいしゃ)は身を固めた。
 
 紗(うすぎぬ)越しでは顔かたちまではわからない。しかし、身を起こした影がすらりと長いことは見てとれる。映貴妃(えいきひ)とは、背の高い女性のようだ。
 
「だれ? いつも寝所には入らぬようにと言っているでしょう?」
「愛紗です」
「……あいしゃ? あいしゃ、愛紗……。ああ、そんな子いたかしらね」
 
 色気のある掠れた声が返事する。紗をわずかにもめくらず、決して顔を見せない。寝台に潜り込むことも考えたが、どこか威圧感のある声に愛紗は躊躇(ちゅうちょ)した。
 
「陛下の一人娘がこのようなところにどうしたのかしら? まさか、迷い込んだわけではないでしょう?」
「映貴妃さまにご挨拶したくて」
「そういうときは事前に知らせるものよ」
「……ごめんなさい」
 
 すぐさま謝るものの、愛紗は頑なに引こうとはしなかった。ただの一度でもいいから顔を見なければ帰れない。顔を見たからと言って、黎明(れいめい)を狙う暗殺者――鬼であるかわかるわけではないのだが、ある種の意地のようなものだった。
 
「あたし、映貴妃さまとお話がしたいの」
「そう……。改めていらっしゃい。準備に時間がかかるわ」
「待ちます」
 
 愛紗の元気な言葉に、映貴妃は大きなため息を吐き出した。影が長い髪をかきあげる。
 
「いいわ、準備をするから別室でお待ちなさい。誰か!」
 
 映貴妃の呼ぶ声に応じ、すぐさま女官が現れる。映貴妃は女官に愛紗を別室で待たせるよう指示を出した。
 
 愛紗は女官の後ろを着いて歩く。蓮華宮(れんかきゅう)の中を興味深く見て回った。愛紗の住む雛典宮(すうてんきゅう)とは全く作りも装飾も違うからだ。

 広くて迷路のように部屋数が多い。一人で使うには贅沢過ぎると感じた。
 
 ひらひらと舞う華やかな紗(うすぎぬ)が仕切りになっている。どれも精巧な刺繍が施されていた。寝所の装飾から見ても、映貴妃とは華やかな人なのだろう。
 
 建物の柱には蓮(はす)の絵が掘られ、天井は蓮池を思わせる澄んだ青が塗られていた。
 
 ついつい天井の鯉を数えてしまう。歩を止めた女官に気づかず、愛紗は彼女の足に体当たりした。
 
「あたっ」
「申し訳ございません。こちらでお待ちいただけますでしょうか?」
 
 女官は装飾の施された椅子を指し示す。愛紗は元気よく返事をすると、大人用に作られた椅子によじ登る。
 
 この身体は少しばかり厄介で、何もかも小さすぎる。早く成長しないものかと、愛紗は小さな紅葉のような手を広げた。
 
「ね、映貴妃の寝所ははいっちゃだめなの?」
 
 佇む女官に声をかければ、慌てたように頭をさげる。
 
「はい。お呼びされるまでは入ってはいけないと言いつけられております」
「それだと、朝のしたくが大変でしょ?」
「貴妃はご自身である程度のことはやりたい方でして……」
「そーなの」
 
 準備は一人で。怪しい。愛紗は寝所の方角を睨む。妃嬪の中でも最上級の位を持つ者が自身で支度をするだろうか。あの紗の向こうには何か秘密が隠されているのでは?

 実は鬼が女の皮を被っているとか。
 
 思い立った瞬間に、愛紗は椅子から飛び降りた。しかし、映貴妃の寝所へ向かうことはかなわなかった。部屋を出た瞬間に、人にぶつかったからだ。
 
「あたっ」
「どうしたの? 慌てて」
 
 ゆっくりと顔をあげる。波打つ髪を追いかければ、顔が近づいてくる。
 
「映貴妃?」
「そうよ。あなたが挨拶したかった人よ」
 
 映貴妃はにこりと笑うと、愛紗の視線に合わせて膝を折った。手入れの行き届いた白い肌。切れ長の目は愛らしさこそないが、聡明さを感じさせる。
 
 長くて綺麗な手で、愛紗の頭を撫でた。その手があまりにも優しくて愛紗は目を細める。
 
「陛下の愛娘がご挨拶に来てくださるなんて光栄だわ」
「眠っていたのにごめんなさい」
「いいわ。今回は許してあげる」
 
 映貴妃は愛紗を抱き上げると、まっすぐ椅子へと向かった。宮に引きこもってばかりの割に、どうやら力はあるようだ。
 
 十然に抱き上げられるよりは低いが、そう変わらない目線の高さに思わずあたりを見回した。女官たちよりも頭一つ分くらいは背が高い。
 
 ――お父さまはこういう女性が好きなのね。
 
 華やかな美人だ。黎明と並べば、さぞかし迫力のあることだろう。今朝会ったばかりの黎明を思い出す。花も霞むような眉目秀麗な男だった。
 
 胸は大きく、首まで覆う衣を押し上げている。豊満で迫力のある美人が好みとは、想像もしていなかった。
 
「いつも、この時間までおねむなの?」
「そうよ、毎晩陛下が離してくれないの」
 
 含んだ笑みを見せた。毎晩、夜伽に忙しいというわけか。愛紗はふんふんと頷く。
 
「今日はどうしたのかしら? こんなことするのは初めてでしょう?」
「実は今夜の夜伽はあたしがするの。お父さまと仲良くなる秘訣を教えてください」
「あなたが? 陛下と?」
「あい」
「あの黎明が良いと言ったの?」
「あい。お父さまは約束してくれました」
「そう……」
「もしかして、怒ってる?」
 
 本来ならば、映貴妃が呼ばれるはずだったのだ。普通の妃嬪なら鬼となってもおかしくはない。しかし、彼女はにこりと笑うと頭を横に振った。
 
「いいえ、久しぶりに夜にゆっくり眠れるなんて良い話よ。ありがとう」
 
 見栄でもなく、本心かのように彼女は愛紗の頭を優しく撫でた。
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