乙女ゲームに転生した華族令嬢は没落を回避し、サポートキャラを攻略したい!
(よかった、幽霊に話しかけられたんじゃなくて。よく考えれば、出るとしたら深夜よね)

 そこまで考え、絃乃は自分の失態に遅れて気づく。

「と、とんだ失礼を……!」
「いいえ、とんでもないです。僕が急に声をかけたせいで、驚かせてしまったようですし」

 男は気を悪くした様子はなく、立てますか、と声をかける。
 絃乃はこくりと頷く。自力で立ち上がり、改めて男に謝罪した。

「お見苦しいところを見せてしまって、ごめんなさい。他に人がいるなんて思わなくて」
「これは僕の憶測ですが。先ほどの光景は、今日に限ったことではないのでは?」
「う。……まさか、以前にもご覧になりました……?」

 図星をつかれ、上目遣いに見上げる。否定してくれることを願いながら、言葉を待つ。

「いえ、今日が初めてです」
「でしたら、どうして」
「そんなに怖い目をしないでください。なんとなく、そんな気がしただけです」

 男は困ったように両手を挙げた。言葉の真偽を確かめるべく、絃乃が注視していたからだ。
 関心の矛先を変えようと、男は慌てたように語を継ぐ。

「ところで、青の矢絣(やがすり)に藤紫の袴。もしや、小紫女学生の方では?」
「え、あ。……はい、そうですけれど」
「確か、華道に力を入れた学校ですよね。優秀な指導者がいるなら、これから上達しますよ」

 けれど、励ましの言葉ですら、今の絃乃には傷口に塩を塗る行為に等しい。

「華道の成績が『丙』でもですか?」
「……なるほど、それが重いため息の原因ですか」

 得心がいった様子で、男は顎をさする。

「さようでございます。私にはお花を生ける才能が皆無のようでして」

 絃乃は自嘲気味に返事した。
 良妻賢母となるため、女学校の授業はそれに準じた内容になっている。修身、国語、数学、歴史といった科目の他に、花嫁修業に関する科目がある。家事や裁縫、琴、華道の授業は多めに時間割に組み込まれ、絃乃を悩ませる原因となっている。

「……そういえば。あなたこそ、ここで何をしていたのですか?」
「ああ、草花を写生していました。ただ、思いのほか居心地がよくて、仮眠のつもりがぐっすり寝てしまったようですが」

 男は説明すると、先ほど寝そべっていた土手から帳面を持ってきた。表紙をめくり、ぱらぱらと用紙を繰っていくと、描き途中の花が描かれていた。

「……お上手ですね」
「ありがとうございます。よろしければ、ご覧になりますか」
「よろしいのですか? ぜひ!」

 女学生としての淑女らしさを忘れ、絃乃は差し出された帳面に飛びついた。
 どれも葉脈まで丹念に描きこまれている。一枚一枚が丁寧に描かれており、まるで目の前に花を見ているような錯覚を覚えた。

「……あら? 図書館でしか見たことのない花もある……」
「書物から模写することもありますので」

 すぐに答える声に納得しつつ、ページを繰っていく。

「桔梗の花言葉は『誠実』。紫苑は『君を忘れない』。福寿草は『幸福を招く』……」

 自然と自分の口からもれた声に、男が感心したように言う。

「ずいぶんと詳しいのですね」
「いえ、私の知識なんて本からかじった程度ですから。……素敵な絵でした。見せていただいて、ありがとうございました」
「こちらこそ、感想をいただけて励みになりましたよ」

 すっかり日も沈み、辺りは夜の気配で満たされていた。
 こんな時間に河川敷に降りる人間は、酔狂と思われても仕方がない。

「そろそろ帰る時間ですね。よければ途中までお送りしましょうか?」
「い、いえ。一人で大丈夫です」

 慌てて手を振って断ると、男は朗らかに笑う。

「そうですか? では、夜道にはお気をつけて」
「……ええ、ごきげんよう」

 不思議な男との出会いに奇妙な縁を感じつつ、絃乃は家路を急いだ。
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