金木犀
ここはどこ?
ゆっくり目を開けると、さっきとは違う場所に運ばれていた。
色んな機械の音に、酸素マスク。
腕には点滴が刺されていた。
「星南、起きたか?」
湊は、私が起きるまでずっと手を握ってくれていた。
「ずっとここにいたわけ?」
「まあな。
それより、呼吸はどうだ?
少しは楽になった?」
酸素マスクが繋がれているのに、楽になるわけがないじゃない。
その意を込めて、私は首を横に振った。
「そうか…。まあ、酸素マスクつけてるんだし多少なりとも苦しいよな。
それから…
星南が倒れる前に、一夜を過ごしただけなのにって言ったよな。」
「それが何?」
「星南は覚えていないかもしれないけど、俺達ずっと前に1度だけ会ったことがあるんだよ。」
「え?」
「そうだな。
あの頃の星南も、こうして寂しそうな瞳をしていたよな。
2年前の冬、覚えていないか?」
2年前の冬?
たしか…2年前は母親に捨てられた年。
小児科の退院と同時に捨てられたんだっけ?
体の調子が楽になって退院が決まった。
退院の日に迎えに来ると言っていたはずの母は、退院の日に迎えには来てくれず、結局1人であの家に帰った。
家へ帰ると、テーブルの上には
『これで自由に生きなさい。』
その手紙と一緒に、通帳と印鑑が置かれていたんだっけ。
いや、そんなことよりも…。
「覚えてないんだけど。」
そう言って、私は湊の手を振りほどく。
「そうか。
あの頃のお前も、今のように高熱を出して俺の診察を受けただろう?」
きっと湊が言っているのは、退院してからすぐの話。
母親に捨てられたあの日、家にいたくなくて肌を突き刺すような冷たい風の中、夜道を歩いていたんだっけ?
あの日は一夜、公園のブランコで星を眺めていた。
何も考えずに、そんなことをしていたから風邪をこじらせた。
高熱を出して、郵便受けが貯まっているのを誰かが見兼ねて、救急車を呼んでくれたんだっけ。
だけど、そんな昔のこと…。
よく覚えてるよね。
数多くいる中の患者の1人なわけで、何で私の事を覚えているの?
医者の記憶力って人並み外れているの?
「ああ…。あまり覚えてないけど、風邪をこじらせたのは覚えてる…。
私の診察したの、あの日もあんただったんだ。」
「まあな。」
「それにしても、よく私のことを覚えてたね。」
「随分と反抗的な目をした子だと思ってな。」
「何それ。ふざけないで…」
「いいから、大人しく休んでろよ。
まあ、今日は俺もお前の病室に泊まるから覚悟しておけよ。」
「何でよ。何の嫌がらせ?
私の事なんて放っておいてくれる?
あんたがいると、休めるものも休めないんだけど。」
「そうは言っても、本当は1人だと不安なんだろう?
そんな寂しい表情で、そんな棘のある強い言葉を言い放ったって、俺は怯みもしないからな。
むしろ、星南がそんな言葉を投げかける度にお前の傍から離れたくなくなるだけだからな。
本当は、怖いんだろう?
1人でいることが…。」
そう言って真剣な瞳をする湊。
「何で…あんたにそんなこと…」
「一応俺、今はここで呼吸器内科の医者として働いていているけど、心療内科医として何年も働いてきたから分かるんだよ。
2年の時が流れても、星南の瞳は何一つ変わっていないしな。
きっと、俺には想像出来ないくらいお前の人生は過酷なものだったんだろう?」
何よ。
何でそんなこと言うの?
どうして…
こんなに涙が止まらないわけ…?
湊から掛けられた言葉に動揺し、私はしばらく何も考えられなくなっていた。
気づけば、湊に抱き寄せられ大きな腕の中へ抑え込まれていた。