マリファナの樹
 

「最近お湯が苦手でさ」


 日に日に温度下げてるよ、と髪にタオルをあてがいながら出て来た桐子に視線を止める。

 いつもの白シャツに、青のジーンズ。背中まで伸びた黒髪は先程の澱んだくすみとは乖離して、水滴が本当の天の川を助長して錯覚させた。細身で、見目は整っているし美人な方だ。黙ってさえいれば。次の被害者はこの白か、とそのシャツを眺めていると、外した二つ目のボタンの隙間から黒い痣が見えた。

 リモコンでエアコンを操作したまま、桐子が視線に気付いて目だけを此方に向けてくる。


「どこ見てんのよ。えっち」

「…」
「おや。これを言うと男は喜ぶと聞いたんだけど」
「…前より痣、濃くなってないか」

「まぁなぁ。そりゃ浅くはならんだろう。某アニメーション映画の呪われた主人公とて自身を蝕む猛威と人間に果敢に挑んでこそデイダラボッチに生きろと称賛を受けるんだ」


 私はそのどれにも挑んでいないよ、とリモコンを連打している。気温を下げたいのかずっとピピ、と音が鳴るのが耳障りで立ち上がってその手首を掴んだ。
 近寄って見下ろせば、その痣は確かに前より色濃くなっていた。

 桐子が「芽」と称した痣。


「さすが。無感情だな青磁、私が見込んだだけある。喜怒哀楽の〝哀〟も見せないか」

「ふつう、こういう局面で大体の人間が死に怖気(おぞけ)、恐怖に身を震わせて目の前の男に泣きついて(すが)るんだよ」
ふつう(・・・)ね。それはどこの誰が決めた摂理だ。その多くは大衆心理だと思うよ」
「お前はもうちょい儚さを灯せや」

「いや〜〜〜そうは言ってもなっちゃったもんはしょうがないしな〜〜〜」


 奇病に罹っちゃうなんてさすが私だな〜〜〜??

 とかなんとか(のたま)ってプリンへと向かう桐子に、人並みの感情を期待した俺が馬鹿だった。そうだ、こう言う女だ。だからデートの席で何てことはなく重大な事実を告げ、その後何事もなかったように「創作の続きがあるんで帰るわ」とかほざくのだ。奇病とてこの奇抜を払拭するには至らなかった。

 とはいえ彼女を蝕んでいる。今この瞬間もただ刻、一刻と。


「感情も創作の糧になるよ青磁。貴方の機微が私に刺激を(もたら)すんだ」

「お前はさておき他の花餌罹患者に不謹慎だ」
「計画があるんだ。壮大なプロジェクト。この病に罹った瞬間にインスピレーションが降りて来た。やっと私が抱えていたジレンマを手放せる、今はその歓喜で胸がいっぱいだよ」
「…」

「良かったね、きみの彼女は気狂(きちが)いで」


 青磁にもそのうちね、ひとまずは刮目せよ。そんなことを桐子が口遊(くちずさ)むので、内心ほっとしていた。何が変わることも、なかった。病一つに蝕まれたとて、歪むものなどなかった。俺も桐子も。

 螺子(ねじ)がとうの昔に外れていたことで上手く命拾いした。



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