恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 彼にこんな顔をさせる女性が、何処かにいる
のだ。なのに、その女性と彼が結ばれることは、
ない。

 そう思うと、どうにも胸が苦しくて仕方なか
った。

 安易に、「おめでとう」などと口にしてしま
った自分が、赦せない。自己嫌悪から俯いてし
まった蛍里に、専務の穏やかな声が聴こえた。

 「この話は、もうやめましょう。せっかく、
美味しいものを食べているんですから。もっと、
楽しい話を。そうだな……折原さんは誰か気に
なる人とかいるんですか?」

 唐突にそんな話を振られ、蛍里はびっくり
して顔を上げる。そのリアクションを予想して
いたかのように、専務はくすりと笑った。

 一気に場の空気が変わる。

 「ど、どうしてそういう話になるんですか?」

 「どうしてって、あなたが先に僕の心の内を
聞き出したんだから、今度はあなたが話す番で
す。フェアにね。セクハラだと主張するなら、
これ以上は訊きませんが」

 まるでいたずらっ子のような顔をして、蛍里
の顔を覗く。

 セクハラだなんて……先にそう言われてし
まうと、その言葉を盾に逃げることもできな
くなる。

 蛍里は敵わない、と言いたげに口を尖らせる
と、控え目な声で言った。

 「気になる人は……います。どこの誰とは
言えませんけど。その人の存在があるだけで、
気持ちが明るくなるというか、平凡だった日常
が、色づくというか……」

 心に想い浮かべたのは、もちろん、顔も名前
も知らない、


-----詩乃守人。その人だった。



 その想いはまるで、物語の主人公に恋をして
いるようで、やはり、現実の恋には程遠いのかも
しれないけれど。

 気になる人はいるか?
 と訊かれれば、今はその人の顔しか浮かば
ない。

 「少し、妬けますね」

 「……えっ?」

 正直に、自分の気持ちを口にした蛍里に、そん
な呟きが聴こえて、蛍里は思わず聞き返した。

 当の本人はとぼけているのか、笑んだままで
小首を傾げている。空耳、だろうか?

 「いえ。あなたは素直な人だと。適当に茶を
濁せば済むことも、こうして正直に答えてくれ
る。そういう、純朴な人が身近にいてくれると、
僕もほっとします」

 もしかして、言わなくても良かったのか?と、
彼のその言葉に真意を見つけて、蛍里は目を
見開いた。

 そうして、専務につられたように、笑う。



-----何だか、とても心地が良かった。



 始めのうちは緊張ばかりで、料理の味すらわか
らなかったのに、いまは少し冷めたパスタも美味
しい。

 こんな特別な時間は、きっと二度とないだ
ろう。

 そう思って、チクリと胸が痛んだ事に蛍里は
気付かないまま、運ばれてきたデザートを堪能し
たのだった。
< 27 / 103 >

この作品をシェア

pagetop