恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 聞き覚えのある声にゆっくりと振り返れば、
そこには黒いビジネスバッグを手にした、滝田が
立っていた。外回りから戻ったところだろうか?
滝田がビニール袋を拾い上げて、はい、と蛍里に
渡してくれる。

 「……あ、ありがと」

 蛍里はぎこちなく笑みを見せながら、それを
受け取った。

 何となく、滝田に顔を覗き込まれ、視線を逸ら
す。その蛍里に、滝田はいつもとは少し違う声の
トーンで訊いた。

 「何処行ってたの?」

 「何処って……お昼だよ。あ、それとね、榊
専務に頼まれてた本を買いに、ちょっと本屋まで。
だから、戻りが遅くなっちゃって。いま、急いで
着替えたとこ」

 早口でそう答えると、専務から“借りた”ビニー
ル袋にちら、と目をやる。

 人は“嘘”をつこうとすると多弁になってしま
うらしい。蛍里は不自然に思われやしないか、
どきどきしながら滝田の顔を見上げた。

 滝田が小さく息をつく。何だか、嫌な予感が
する。

 「俺さ、緑道公園の前に車停めて休んでたん
だ。そうしたら偶然、榊専務が運転する車を見か
けて。それで……待ってた。あの人と一緒だった
んだろう?もしかして、俺にまで嘘つかなきゃな
らない関係?」



----壁に耳あり障子に目あり、とはまさに
この事だ。



 蛍里は、始めから嘘がバレていたという衝撃的
な事実に表情を硬くしながら、それでも何か言お
うと口を開きかけた。その時だった。

 突然、滝田がぐいと蛍里の腕を掴んで廊下から
は人目につきにくい、階段の影に引っ張りこん
だ。そうして、「しぃ」と口元に人差し指をあて
た。

 訳がわからないまま、うん、と頷いて、蛍里は
息を潜める。すると、コツコツ、と足音が近づい
てきて、2人がいた場所を榊専務が通った。

 その姿に、どきりとした瞬間、また、別の足音
が聴こえてくる。

 カツカツ、という女性のヒールの音。
 専務の後を追うような、そんな足音だった。





 「一久さん」

 その声に、榊専務が振り返った気配がした。

 声の主の姿は見えない。けれど、榊専務のこと
を名前で呼ぶ人など、社内には社長くらいしかい
ない。

 「秋元さん。どうされたんですか?」

 少し動揺が入り交じった声で、榊専務が言う。

 秋元と呼ばれたその女性は、ふふ、と声を漏ら
してから、甘えるような声で続けた。

 「あら、社長から聞いてませんか?今日は近く
まで来る用があるから、社の方に顔を出しますと
伝えておいたんですけど……」

 「いえ、父からは何も。ですが、そういうこと
なら直接、僕に連絡をくだされば迎えの車を出し
ますよ。僕もずっと社内にいるわけではないの
で、その方がすれ違わずに済むと思いますし」

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