恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 そこまで言った滝田に、蛍里は信じられない、
といった顔で首を振った。そんな風に、自分が
噂されているなんて。初耳だ。

 「うそ。知らなかった……わたし、そんな風に
言われてるなんて。だって、わたしが専務に仕事
を頼まれるのは、一番席が近いからで、他に理由
なんてないのに。どうして、みんな陰でそんな
こと……」

 動揺から声を震わせてそう言った蛍里に、滝田
がはは、と白い歯を見せる。蛍里は、不思議に
思って顔を上げた。

 「陰で言うから、『陰口』って言うんだよ。
でも、そういうのに疎い所が、折原さんらしく
ていいんだけど。専務も婚約したとは言えあの
容姿だから、密かに憧れてる女子が多いんだ。
だから、折原さんにその気がないなら、必要以上
に彼に近づかない方がいいと思う。あることない
こと噂されたりするの、嫌だろう?」

 大人が子供にそうするように、ポンと蛍里の
頭を軽く叩いて、滝田の手が離れてゆく。蛍里は
もう、それ以上何も言えずに、わかったとだけ
答えた。



 ブーー、ブーー、と、滝田の懐で携帯が
震える。



 「あ、やべ」

 そう言って電話に出ると、滝田は「しぃ」と、
また人差し指を唇にあてた。蛍里も唇に指をあて
て頷く。廊下には誰もいない。

 「お疲れさまです………はい……はい。あと
5分くらいで社に戻れます。はい………わかり
ました」



-----もうとっくに社内にいるのだけど。



 涼しい顔で“車内”にいるような口振りでそう
言うと、滝田がピッ、と電話を切る。

 蛍里は彼の要領の良さに目を丸くしながら、
2人で顔を見合わせて笑った。

 「あと5分って……上手いね。滝田くん」

 「これくらいのこと、しょっちゅうやってる
よ。俺らの部署は就業時間があってないような
もんだからね。それより、折原さんも戻らな
きゃヤバいんじゃない?もう40分過ぎてる」

 腕時計に目をやりながらそう言った滝田に、
蛍里は悲鳴を上げそうになった。



-----いくら何でも、これは不味い。



 「ごめん。わたし、もう行くね!!」

 蛍里はそう言って滝田に手を振ると、専務から
借りた本を脇に抱えて、廊下を走ったのだった。






 (その気がないなら、彼に近づかない方が
いいと思う)

 家に帰っても、テレビを観ていても、昼間、
滝田に言われたそのひと言が頭から離れなか
った。

 何だか、モヤモヤする。

 自分にはそんなつもりなんてないのに、陰では
好き勝手に言われていたのだ。しかも滝田にま
で、その気がないなら……なんて言われて。

 “その気”というのは、いったいどういう意味
なのか?
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