恋に焦がれて鳴く蝉よりも
「あーー、まいったなぁ」
誰もいないフロアで、蛍里はひとり呟いた。
結子がいれば、こんな事にはならなかったの
だが、高熱が続いているのだから、致し方ない。
今日が締め日でなければ、ここまで忙しくな
ることはなかったのだけど。
「ごめんねぇ。一人じゃ大変だよね」
と、電話の向こうから擦れた声でそう言った
結子に、「大丈夫じゃない」とはとても言え
なかった。
蛍里は一度両手を天井まで伸ばし、躰を解す
と経理ソフトを覗き込んだ。
経費精算の領収書が束になっている。
あとは、これを全部入力すれば終わりだ。
蛍里は指サックをして、パラパラ、と領収書
をめくった。
そして、はたとその指を止めた。
------あれ?領収書が、ない。
蛍里は専務と他店の視察に行った日の領収書
を探した。けれど、何処にも見当たらない。
蛍里は顔を顰めた。
そう言えば、自分が化粧室に立っている間
に、専務は会計を済ませてしまっていた。
だから、専務が領収書を貰っている場面を
見ていないのだ。まさか……貰ってない、と
いうことはないだろうけど。
もしかして、出し忘れているのだろうか?
もしそうなら、月またぎ経費として来月
清算することも可能だけれど……蛍里がそう
思い倦ねていた時だった。
「まだ、残ってたんですか?」
隣りの専務室からではなく、フロアの入り
口からその人の声がして、蛍里は思わず声を
上げた。
「専務、あのっ!」
その蛍里の反応に、少々驚いた顔をして、
榊専務が蛍里の側まで来る。
ビジネスバッグを持っているということ
は、出先からの戻りだろう。
ちょうど良かった。
「この間の視察の件なんですけど、その、
領収書が出てなくて……いま、お持ちです
か?今日が締め日なので出してもらえれば
助かります」
席を立って、自分を見上げながらそう
言った蛍里に、専務は「ああ」と苦笑いを
浮かべ、顎を撫でた。
「その件でしたら、気にしないでください」
「気にしないでって……どういう意味で
すか?」
蛍里はわけがわからずに、眉を顰める。
専務は、つい、と視線を他所へ移しながら、
さらりと言った。
「失くしてしまったみたいです。だから、
もう……そのことは気にしないでください」
その言葉に、蛍里はこれ以上ないほど目を
丸くした。
気にするな、と言われて、気にしないで
いられる訳がない。
会計の金額を見たわけではないが、支払は
2万円を軽く超えていたはずだ。そんな高額
な食事を、専務にご馳走になるなんて……。
はい、わかりました。と頷けるわけな
かった。