恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 「そ、そんな。でもっ……」

 動揺から、言葉を詰まらせてしまった蛍里に、
専務は白い歯を見せた。

 きゅ、とネクタイを緩めながら鞄を蛍里の隣
のデスクに置く。

 「心配しなくても。僕は経営側の人間ですか
ら、経費の出どころは、僕の懐みたいなもので
す。それより、まだ、仕事は終わりそうにない
んですか?僕に出来ることなら、手伝います
けど」

 ちら、と壁の時計に目をやりながら、専務
が言う。

 それとなく、話の矛先をすり替えられて、
それ以上何も言えなくなってしまった蛍里は、
いいえ、と首を振った。

 専務の仕事を蛍里が手伝うならともかく、
蛍里の仕事を専務に手伝ってもらうなど、
以ての外だ。

 「ありがとうございます。でも、あとこれ
を入力するだけですから」

 領収書の束を手に取って蛍里がそう言った、
その時だった。



-----ギュイイイ!! ギュイイイ!!



 突然、榊専務の懐で激しくアラーム音が
鳴った。

 その音にビクリと肩を震わせた蛍里の耳に、
続けて甲高い音声が飛び込んでくる。

 

 「緊急地震速報です。強い揺れに注意して
ください」

 

 蛍里は専務と顔を見合わせた。
 地震が来る。

 それも、大きい揺れだ。
 2人は緊張した面持ちで周囲を見回した。

 数秒もしないうちにカタカタと棚のガラス
が音を立て始める。そして、すぐにそれは
大きな音となり、大きな揺れとなって襲い
掛かってきた。

 「うそっ……やだっ!!……」

 ガタガタと、不気味な音を立てながら
フロア中の物が大きく揺れた。恐ろしさか
ら膝が震え、立っていられなくなった蛍里は、
しゃがみ込んでデスクにしがみつく。

 その蛍里を庇うように、背後から抱きしめ
ると、専務は「大丈夫」と囁きながら蛍里の
手を握った。蛍里はその手にしがみつきなが
ら、ひたすら揺れが収まるのを待った。

 バサ、と音を立ててスチール書庫から
ファイルが何冊か落ちる。

 まるでビル全体が波に揺られる船のように、
ゆらゆらと大きく揺れる。



-----どれくらい揺れていただろうか?



 次第に、ガタガタという音が小さくなり、
やがて、元の静寂が訪れた。揺れが収まって
もまだ、蛍里は震えが止まらなかった。

 ここまで大きな揺れは、10数年前の
西日本大震災以来だ。

 「もう大丈夫だから」

 蛍里の腕を擦りながら、専務が穏やかな
声で言った。

 その声に蛍里は小さく頷く。

 彼の体温がシャツを通して染みてくる。
 大きな手の平が、蛍里を落ち着かせるよ
うに、何度も何度も擦った。

 「立てますか?」

 「は……はい」

 ようやく落ち着きを取り戻し始めた蛍里を、
専務が肩を抱きながら立たせた。

 膝はまだ、床が揺れていると錯覚するほど
に、震えている。けれど、いつまでもこうし
て、しがみついている訳にもいかない。

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