恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 「ありがとう、ございます」

 そう言って、蛍里は専務の腕から逃れようと、
した。けれど何故か、肩を抱く手がそれを許さ
なかった。

 そのまま、蛍里は専務の腕に抱きしめられた。

 「……専務?あのっ……」

 抱きすくめられた腕の中で、蛍里は躰を硬く
する。専務の頬が、蛍里の髪に押し付けられる。

 彼の体温が、彼の香りが、あまりも近い。

 どうして自分は、抱きしめられているのだ
ろう?訳がわからないまま、腕の中で息を潜め
ていた蛍里の耳に、彼の擦れた声が聞こえた。

 「僕が一緒にいる時で、良かった」

 蛍里は目を見開いた。
 カッ、と頬が熱くなる。

 やっと静まったばかりの心臓が、どくどく
とまた騒ぎ始めてしまう。



-----どうしてそんなことを、言うのか?



 蛍里は混乱した頭で、必死に考えた。

 もしかしたら、上司として部下を守れて
良かったと、そういう意味かもしれない。

 専務には、心に想う人がいるのだ。

 だから、いまの言葉に特別な意味なんてない。
 あるわけが、ない。

 そう、思いを廻らせていた蛍里の肩を、
専務が解放する。抱きしめられたのは、
時間にして数秒。

 けれど、彼の眼差しを意識するには、
十分すぎる時間だった。

 専務の腕が去っていっても、蛍里は
顔をあげることができなかった。

 ほぅ、と専務が息をつくのが聴こえる。

 懐から取り出した携帯を見ているよう
だった。

 「震度5強だったようです。もともと、
高層ビルは揺れるように設計されている
から、17階ともなると震度6くらいの
体感はありますね」

 いつもと変わらない声がして、蛍里は顔を
上げる。そこにはいつもと変わらない、専務
の微笑があった。

 「怖かったです」

 消え入りそうな声でそう言った蛍里に、
専務が頷く。

 さっき専務が言った通り、一人じゃなくて
良かったと、あらためて、思う。

 もし、彼の腕がなかったら……。
 自分は一人で泣いていたかも知れない。

 「少しの間、ここで待てますか?」

 ほんの少し前まで、自分を抱きしめていた
腕の強さを思い出していた蛍里に、専務が
訊いた。

 えっ、と不安げな顔をして、専務を見上げる。

 「ちょっと、他のフロアを見てきます。
まだ、販促あたりは残っているでしょうから、
安否確認に」

 そう言いながら、専務は蛍里の手を引い
てフロアの壁の近くまで導いた。

 そこは窓からも離れている。

 「ここなら、万が一揺れが来ても落ちて
くるものは何もありません。すぐに、戻り
ますから」

 顔を覗き込んだ専務に、こくりと頷く。

 すると専務はポン、と手の平を蛍里の頭
に乗せ、やわらかな笑みを見せると、駆け
足でフロアを出て行った。

 彼の足音が、遠ざかっていく。

 その足音に重なるように、トクトク、と
蛍里の鼓動が速度を増してゆく。
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