恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 緊張で指先は冷たいのに、顔だけが熱い。

 蛍里は両掌(りょうて)で頬を包むと、しんと静まり
返ったフロアを見渡した。大きく揺れたわり
に、落下した物は少なかった。

 ところどころ、鉛筆立てが倒れたり、スチール
棚の上に積み上げられていたファイルが落ちたり
はしているけれど。

 蛍里は、不意に、その光景を見てはっとした。

 自分がしゃがんでいた場所に、分厚いファイル
が二冊落ちている。あの場所に落ちているという
ことは、自分を庇った専務の背に当たったので
はないだろうか?

 蛍里は唇を噛んだ。

 「大丈夫」と、そう言ってくれた専務の声が
耳に甦る。その声を、あの腕を、思い出すだけ
で、どうにも息が苦しくなる。



-----ダメだ。



 蛍里は目を閉じた。



-----この想いに気付いては、ダメだ。



 蛍里は瞼の裏に浮かぶ専務の顔を、打ち
消そうと努力した。その時だった。

 「折原さん、大丈夫?」

 突然、自分の名を呼ぶ声がして、蛍里は目
を開けた。見れば、滝田が心配そうな顔をし
て自分を覗いている。蛍里は見知った顔に
ほっとしながら、滝田くん、と名を呼んだ。

 「うん。大丈夫、ちょっと揺れが長かった
から、目が回っちゃって……」

 それは、あながち嘘でもなかった。

 大きな横揺れが長かったこともあって、
船酔いのような気持ち悪さがある。

 どちらかというと、蛍里は三半規管が
弱かった。

 「ああ、地震、長かったもんな。まさか、
こんな時間まで折原さんが残ってると思わな
かったから、知ってればすぐにこっちに来た
んだけど。怖かったよな。地震も、地震速報
のアラームも。たまたま、専務が一緒にいた
みたいだから、良かったけどさ」

 そう言って、鼻を擦りながらフロアを見渡し
た滝田に、蛍里はぎこちなく頷いた。

 滝田の口から“専務”という言葉が出て、
どきりとする。

 きっと、社内を確認しに行った専務が、
自分の元に行くようにと、滝田に指示をした
のだろう。

 すぐに戻ると言っていたけれど、各部署を
確認して戻るには、少し時間がかかる。

 そう、思っていた時だった。
 廊下の方からパタパタと足音が近づいて
きた。榊専務だ。蛍里は入り口に目をやった。

 「遅くなりました。大丈夫でしたか?」

 息を切らしながらそう言った専務に、蛍里
は、はい、と笑んで見せた。

 専務が頷いて滝田を見る。

 滝田は腰に手をあてて、蛍里の横に立って
いる。

 「経営企画の方も2人残っていました。販促
が4人だから、全部で8人ですね。電車も止ま
っているようですし、僕の車と営業車の二台で
帰りましょう。滝田さんと折原さんは、僕が
送ります」

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