恋に焦がれて鳴く蝉よりも

-----理由は一つしかなかった。




 自分は彼に惹かれているのだ。
 どの時から、彼に惹かれ始めたのかは、
わからないけれど……いつの間にか、彼のこと
ばかり考え、彼を目で追うようになっている。

 けれど、その気持ちに気付いたところで、
蛍里はどうすることも出来なかった。



-----彼には婚約者がいるのだ。



 そして、その婚約者に心を向けられないほど、
彼には大切に想う人がいる。

 だから、この想いはこのまま、忘れてしまう
のが一番だった。

 傷付くまえに、これ以上、想いが大きく
なるまえに、忘れてしまった方がいい。

 専務が自分を避ける理由はわからない
ままだったけれど、蛍里はむしろ、その方
が諦められると思うようになっていた。



-----それでも。



 久しぶりの飲み会の席で、偶然にも専務
が蛍里の斜め前の席に座った時は、さすがに、
神様を呪った。

 その日は、結婚退職をする谷口さんの
送別会だった。

 各部署、ほとんどの社員が出席していて、
貸し切りの広い座敷部屋は全席埋まっている。

 もちろん、席順は決まっておらず、店に
ついた人から奥へ奥へと座っていったのだ
けれど………。

 どういうわけか、少し遅れて来た専務は、
いつの間にやら蛍里の斜め前の席に座って
いたのだった。

 だから蛍里は、終始、専務の方を見ない
ように、視界に入らないように、隣の結子を
向いていた。

 「ねえ、折原さんも何か頼む?」

 そんな、蛍里の胸の内を知る由もない結子
が、にこやかにドリンクメニューを開いて
見せてくれる。

 蛍里のグラスには、まだ、乾杯の時に注文
した生ビールが半分残っていたが、できれば
この辺でノンアルコールに変えてしまいた
かった。

 このところの寝不足が祟っているのか、
精神的なことが影響しているのか、何だか
今日は酒の回りが早い。

 どちらかというと、蛍里はお酒が好きな
方だったが、今日は控えめにしておくこと
にした。

 「じゃあ、これにします」

 蛍里はカクテルグラスに注がれた「シンデ
レラ」を指差した。これはオレンジ、レモン、
パイナップルの果汁がバランスよくシェイク
されたノンアルコールカクテルで、これなら
お酒を飲んでるフリもできる。

 蛍里のセレクトを見ると、結子は、ふうん、
とそれを覗き込んで「わたしもこれにしよ」
と笑った。

 そうして、彼女は専務や他の社員にも
ドリンクの追加を聞いて回った。

 結子はこういう席に、とても慣れている
のだ。蛍里は、飲み会に参加すること自体が
少ないのもあるが、こういう時も席を立って
動き回ることはない。

 始めから最後まで、同じ席で大人しく飲ん
でいるタイプだった。
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