恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 「ほら。もう寝るから、部屋戻ってくれる?」

 「はぁーい」

 ごろん、とベッドに躰を横たえて鼻先まで
布団をかぶってしまった蛍里に、拓也は空気の
抜けるような返事をして、部屋を出た。

 パタン、とドアの閉まる音がして、目を
閉じる。

 まだ少し、胸がどきどきしている。
 今日も眠れないかも、しれない。

 そう思いながら、蛍里はやがて闇に意識を
落としていった。






 「ねぇ、折原(おりはら)さんってあの話聞いてる?」

 翌日の昼休み。

 職場からほど近いイタリアンレストランで、
大盛りのツナと梅しそのスパゲティーにフォー
クを絡めながら、結子が蛍里に訊いた。

 「あの話って、何ですか?」

 主語の存在しない結子の問いかけに首を傾げ
ながら、蛍里は同じスパゲティーの普通盛りに
フォークを絡める。

 今日は月に一度のご褒美ランチデーだ。
 いつもは会社の食堂に手作り弁当を持参し
たり、お手頃な社食を食べたりしている蛍里
も、月に一度はこうして結子と豪華なランチを
楽しんでいる。

 五十嵐結子は1つ上の先輩だったが、同じ
部署で気さくな結子とは会社で一番の仲良し
と言えた。

 その結子が、やっぱりね、と言いたげに肩
を竦める。

 どちらかと言うと口下手で、人付き合いが
苦手な蛍里が知るわけないと思いながら、
話を振ったに違いない。

 「人事の子に聞いたんだけどね、うちの
(さかき)専務、大手金融会社のご令嬢と婚約が
決まったみたいよ。いわゆる政略結婚って
やつだけどさ。我が社切ってのイケメンが、
ついに人の物になっちゃうのかと思うとなん
かショックよねぇ」

 くるくるとフォークに巻き付けたパスタを
豪快に頬張りながら、結子が小さく首を振る。

 蛍里は、「はぁ。まあ……」と、気のない
返事をしながら、颯爽と廊下を歩く榊専務の
様子を思い浮かべた。

 榊 一久(さかき かずひさ)は、蛍里の勤める外食企業、
サカキグループの後取り息子だ。

 蛍里の所属する経理部と専務室はドア一枚
で繋がっていて、そのドアに一番近いデスク
に座っている蛍里は、榊専務からお茶出しや
コピー取りなど、簡単な頼みごとを受ける
ことが多かった。

 のだけれど……結子の落胆に反して、蛍里
はそれほど彼の存在を特別に感じたことはな
かった。

 確かに、顔立ちは整っていると言えるのか
もしれない。品の良いスーツを着こなす姿は
その辺のモデルよりも秀でていて、密かに彼
の姿を目で追っている女子社員も多いだろう。

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