恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 蛍里は驚きのあまりカラカラに渇いてしまった
喉から、やっとの思いで声を絞り出した。

 「ほんとうに……専務が“あの人”なんです
か?」

 あえて、その名を口にしなかったのは、彼に
その名を語らせるためだった。

 蛍里は食い入るように彼の目を覗き込む。
 専務が目を細め、頷いた。----頷いた。

 「はい。僕があの小説サイトの管理人、詩乃
守人です」

 涼しい顔で彼がそう言った瞬間、蛍里は動揺
から膝の力が抜けてしまった。

 よろけながらベンチに座る。

 倒れかかった蛍里の肩を、咄嗟に専務が
支えた。「折原さん?」と、心配そうに彼が顔
を覗く。

 どうしてそんな平然としているのか?

 彼の表情は、自分が知っているいつもの顔と
何ら変わらない。蛍里は近すぎる彼の顔に頬を
熱くしながらも、縋りつくように彼の腕を掴み、
言った。

 「だって、専務……あの時言ったじゃないで
すか?僕は本を落としていない。娯楽本は会社
に持って行かない、って。だからわたし、てっ
きり“彼”は別人だと、そう思ってたのに……」

 地震があったあの夜、家まで送ってくれる車
の中で、専務はそう言ったのだ。もし、落とし
たと言ってくれれば、もっと早くに詩乃守人の
正体を知ることが出来たはずだ。

 責めるような口調でそう言った蛍里に、それ
でも、専務は悪戯っ子のような顔を向けている。

 「こう言っては何ですが……僕は別に嘘をつ
いたわけじゃありません。あれは、“落とした”
のではなく、あえてあなたのデスクに“置いた”
ものなので……」

 口元に笑みを浮かべ、ぬけぬけとそう言い放
った専務に、蛍里は初めて抗議の声を上げた。

 「そういうの、屁理屈って言うんです!」

 「確かに」

 間髪を入れずそう答えた専務に悪びれた様子
はなく、蛍里は納得いかない顔で口を尖らせた。

 その顔を、不意に専務がじっと見つめる。

 一瞬のうちに、二人の間を艶やかな空気が
流れる。蛍里は慌ててその眼差しから逃げる
ように目を逸らすと、頭に浮かんだ疑問をその
まま口にした。

 「でもどうして、そんなこと……あの本を
デスクに置いて、それで、わたしがあの小説
サイトに辿り着かなかったら、どうするつもり
だったんですか?」

 まったくもって、蛍里は専務の真意が見えな
かった。どうして、彼が自分をあのサイトに導
いたのか。

 そして、詩乃守人として自分と繋がったのか。

 その方法だって不確実で、まるで運を天に
任せるようなやり方だ。

 蛍里には、どうして彼がこんなことをしたの
か、わからなかった。専務が深く息をつく。

 そうして、蛍里の肩から手を離して立ち上が
り、川の向こうを見やった。

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