恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 「さて、何からあなたに話そうか……」

 静かにそう言って蛍里を振り返ると、彼は手を
差し伸べる。蛍里は黙ってその手を取り、立ち
上がった。



-----彼の口から何が語られるのか?



 心臓は耳に煩いほど騒いでいる。
 専務は蛍里の手を引いて水上テラスの端に
導いた。眼下には青に染まった水面がきらきら
と揺れている。

 橋の手すりに手をのせれば、ひんやりと冬の
冷たさが、手の平に広がった。

 「本当は、会わないつもりでした」

 沈黙を破って聞かされたそのひと言は、
存外に蛍里の胸を締め付けた。専務はちら、
と蛍里の顔を見、寂しげな笑みを浮かべる。

 蛍里は何も言えずに、彼を見つめた。

 「僕が詩乃守人だと……あなたに明かすつ
もりはなかったんです。このまま、アマチュア
作家とその読者のひとりとして、ただ繋がって
いられれば、と。あの日までは……そう、思っ
ていました」

 あの日、というのは“いつの日”のことなの
か?彼の言葉からそれを察することはできな
かった。だから、蛍里は黙って彼の言葉に耳
を傾ける。

 「あなたのデスクにあの本を置いたのは、
賭けでした。あなたが僕の走り書きに気付い
て、あのサイトに辿り着いてくれれば、必ず
僕の作品を読んでくれる。それでも、あなた
が僕に感想を送ってくれるという確信はなか
った。だから、あなたから感想のメールが届
いたときは、本当に嬉しかったんです」

 そう言って微笑んだ顔は、詩乃守人、その
人のものだった。

 いま、繋がれているこの手から、あの繊細
な文章と物語が生み出されたのだと思うと、
また、別の感情が湧いてくる。

 自分はいま、会いたくて仕方なかった、
その人に会っているのだ。

 蛍里が思い描いていた人物とは、あまりに
かけ離れていたけれど……彼が詩乃守人だと
聞かされれば、彼以外にいないのだと、いま
は思える。

 「専務……詩乃守人さんの書く物語は、
どの作品も心に残りました。言葉のひとつ
ひとつが、心に沁みると言うか、何度も読み
返したくなる文章なんです。だから、感想を
送らずにはいられませんでした」

 蛍里はただ一人のファンとして、彼にそう
伝えた。

 彼が笑みを深める。
 肩を抜ける風は冷たいものなのに、その笑み
に頬が熱く染まる。蛍里は何だか照れ臭くなっ
て、俯いてしまった。

 専務は小さく息を吐いて、また、川の向こう
を見やった。

 「僕は詩乃守人という別の人間になって、
運よくあなたと繋がることができた。そうして、
少なからず、あなたはその存在に惹かれてくれ
た。本当なら、それは僕にとって喜ばしいこと
なのに、目の前のあなたが“現実”の僕を見てく
れないことが寂しくなってしまったんです。
だから、僕はいつも、もう一人の自分に嫉妬し
ていました」
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