恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 蛍里は、小さく息を吸い込んだ。
 そうして、目を閉じる。
 視界から彼が消える。

 そのひと言を口にすれば、きっと自分の世界
からも、彼は消えてしまうだろう。

 詩乃守人という、作家と共に。
 それでも……。

 蛍里は静かに目を開けた。
 専務はじっと、蛍里の答えを待っている。
 蛍里は声が震えてしまわないように、言った。

 「やっぱり、ダメです。……わたしには、
できません」

 一瞬、すべての音が消えた気がした。
 けれど、それは蛍里の錯覚なのだろう。

 目の前の彼は切なげに目を細め、そうして、
静かに口を開く。

 「あなたはきっと……そう言うと思ってい
ました」

 慈しむように、蛍里の髪を掻き上げながら
専務が微笑する。

 そんなはずはないのに、彼が泣いている
ように見える。

 くっ、と首の後ろに手が回されて、蛍里
は頭を引き寄せられた。それはほんの一瞬の
ことで、蛍里は拒めない。

 「一度だけ、言わせてください」

 耳元で彼の声がした。
 じん、と心が震えるような声だった。

 蛍里は体を硬くしたまま、その声を聴いた。



 「……愛しています」



 本当なら、幸せで満たされるはずの言葉
だった。なのに、どうしてか、その言葉を
聴いた瞬間に、涙が溢れて止まらない。

 蛍里は涙で歪んでしまった視界に映る
専務を、見上げた。

 その頬に、さっき、返したばかりのハンカチ
があてられる。

 あの時と同じ匂いがする。
 温もりも、彼のものだ。

 「僕はもう少し、ここにいます。あなたは、
帰りなさい」

 「……っ、専務」

 しゃくり上げながら名を呼ぶと、彼は
小さく頷いて蛍里の肩を優しく押した。

 彼に背を向けて、一歩、一歩、歩き出す。

 振り返ることは出来なかった。
 自分は、「白いシャツの少年」のように、
彼をさらうことは出来なかったのだから。

 蛍里は彼のハンカチで顔を拭うと、眩い
光の溢れるその場所から、ひとり去って
行った。






 翌日も、その翌日も。

 蛍里は一日のほとんどをベッドの中で過ごし
ていた。寝ても覚めても、頭の中で繰り返される
のは、あの晩の専務とのやり取りで……今さら、
どうにもならないことを延々と考えてしまう。

 彼と会ったのが金曜日だったから良かった
ものの、もし、平日だったならきっと仕事に
ならなかったに違いない。

 蛍里はベッドに横になりながら、枕を抱き
締めながら、深いため息をついた。

 

-----そうしてまた、考えてしまう。



 もし、あの時、彼の想いを受け止めていた
ら、と。もしそうしていたら、今頃、彼の
となりで幸せな顔をしていたかもしれない。

 こんな風に、ひとりで枕を抱えて泣くこと
もなく、ふたりで手を取り合って、苦難を
乗り越えようと、語り合えたかもしれない。
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