恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 そんなことが、あるはずない。

 だって自分は、彼が背負うもののために、身を
引いたのだから。

 彼が多くを失わないように、この恋を諦めた
のだから。

 蛍里は知らず、布団カバーを握りしめた。

 結局、本当のところは彼に訊いてみなければ
わからない。

 明日、彼に会って確かめよう。
 蛍里はあの日の彼の眼差しを思い出し、唇を
噛んだ。






 翌朝。
 いつもより早い電車に乗って出勤すると、フロ
ア内にはすでに幾人かの姿があった。

 当然かもしれない。
 みんな自分と同じように、突然の知らせに心を
落ち着かなくさせているのだ。

 蛍里は数人の社員たちを前に渋い顔をしてい
る、経理部長を見つけ、足を向けた。

 「……僕もね、ついさっき報告を受けたばかり
なんだよ」

 そう言って、腕を組みながら顎を擦っている
経理部長の声が聞こえてくる。部長の前にいる
社員は、送別会で見た総務部の子たちだ。

 蛍里は彼女たちの背後から、思い切って訊ね
た。

 「あの、部長はどういった報告を受けてるん
ですか?」

 部長が顎を擦ったままで、口をへの字に曲げ
る。

 「いや、だからね。正式な合併の期日と、従業
員に不利益が生じないよう人事制度を見直すか
ら、心配せず通常業務を続けてくれと言われた
だけなんだよ」

 部長の口ぶりから、蛍里の前に立つ彼女たちも
同じ質問をしたのだとわかる。彼がいま語った
以上のことを知っているとは到底思えないが。

 蛍里はちら、と専務室の方を見やった。
 ドアは開け放たれたままで、その部屋にまだ
彼はいない。本人に訊くのが一番手っ取り早い
けれど、もし知っているのなら教えてほしかっ
た。

 「あの、役員の方々がどうなるかは聞いていま
せんか?専務や本部長は……」

 蛍里がそのことを口にすると、部長は「それな
んだけどね」と、少し考えてから唸るように言っ
た。

 「もちろん本部長はこのまま役職を続けるけ
ど、どうやら榊専務は辞任届を提出したらしい
んだ。僕もびっくりしていてね。詳しい事情は
よくわからないんだが……」

 「え」

 部長のその言葉に、蛍里は思わず声を漏らして
いた。

 一緒に聞いていた総務の二人も、驚いて顔を
見合わせていたが、蛍里の動揺はそんなもの
ではない。

 

-----専務が辞める?どうして……。



 頭の中は真っ白で、がくがくと膝が震えだし
てしまう。

 蛍里は立っていられなくなって、ふらりと
自分の席に戻っていった。すとん、と椅子に
腰かけて、彼のいない専務室を振り返る。

 彼の笑顔を最後に見たのは、いつだったか。

 記憶を辿っても、上手く思い出すことが出来
ない。
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