恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 蛍里はすっかり赤く染まった頬を両手で包み、
頬杖をついた。

 「なにが正解だったのか、わからなくなっち
ゃった。どうして専務が居なくなったのかも、
わからないし。わからないことだらけで、ずっと
そこから動けないの。このままじゃ終われないっ
て言うか、専務のこと……忘れられそうもなく
て」

 そう口にして、彼の眼差しを思い出せば、また
つんと痛む場所がある。

 蛍里は、すん、と鼻をすすると、ビールを半分
ほど喉に流し込んだ。

 結局、あれから専務は一度も会社に顔を出さな
かった。

 あの日から一週間が過ぎた頃、どこからとも
なく聞こえてきたのは、どうやら秋元紫月の方
から婚約を解消したらしいという(まこと)しやか
な噂と、専務の辞任が取締役会で承認されたと
いう話。

 その話を聞き慌てて専務室を覗いてみれば、
いつの間にか彼の私物はなくなり、すっかり
部屋は空っぽになっていた。

 いまや自分に残されたのは彼のハンカチと、
詩乃守人から届いた十数通のメールだけだ。

 そのメールを時折読み返しながら、もう読む
ことのできない詩乃守人の作品を思い出し、会う
ことすら叶わなくなった専務を思い出す。

 まるで二人の人物を同時に失ったような、
不思議な感覚だった。

 「よっぽど好きだったんだな。ねーちゃん
のこと」

 蛍里と同じくらい頬を赤く染めた拓也が、
グラスに残っているビールを一気に飲み干し
て言った。蛍里は、そうかな、と呟く。

 「そうだよ。だって普通はさ、立場とか、
責任とか、そういうどうにもならないことを、
どうにかしてまで誰かを追いかけるなんて
出来ないし、別れ際に『愛してる』なんて
言わないよ」

 うん、と頷きながら腕を組んでそう言った
拓也に、蛍里はまたそうかな、と呟く。

 確かに、彼は「さよなら」ではなく「愛し
てる」と自分に言った。

 そしてその言葉が、こんなにも自分の心を
縛って離さないのだ。

 苦しいのに、忘れられない。忘れたくない。

 こんな想いを、恋を失くした人たちは皆
抱えているのだろうか。

 「無理に忘れることはないと思うよ」

 まるで蛍里の心の内を覗いたように、唐突に
拓也が言った。

 蛍里は驚いて拓也を見る。自分よりも年下
の弟が向ける眼差しは、失う痛みを知ってい
るそれだ。

 「好きでいればいいよ。半年でも、一年で
も、十年でも。ねーちゃんが自然に忘れられ
るまでさ」

 口元で笑んでそう言った拓也に、蛍里は、
ええ?と肩を竦める。

 一年ならともかく、十年後は三十半ばだ。

 そんなに引きずっていたら、嫁に行きそび
れてしまう。複雑な顔をして首を捻った蛍里
に、拓也は言葉を続けた。

 
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