ヴァイスラント公国のワルツ~陛下の恋、僕が叶えてみせます!~

16 夜の海

 二年前、今は役目を終えた灯台に物々しい火がいくつも灯っていた夜を、カテリナは覚えている。
 どんな温厚な隣人でも怒りを持っていないはずがないように、穏やかで知られるヴァイスラント近郊の海も荒れ狂うときはある。そのとき、いつもなら浅瀬で子どもたちが遊んでいた海は大波となって押し寄せ、その数日前に航海に出た船の残骸を打ち上げた。
 船の主はヘルベルト・ローリー将軍。国王陛下の親友で、ローリー夫人のご夫君だった。
 海を臨む小屋のベランダに立って、ローリー夫人は苦笑しながら言った。
「私がもうあきらめてと言うまで捜してくださった。陛下には感謝してもしきれない」
 子守歌のような潮騒が上って来るだけのベランダには、ギュンターとローリー夫人の間を遮る物音もない。
 あのときが嘘だったように、静かで穏やかな夜の時間が広がっていた。
 打ち上げられた船とぶつかって損壊した灯台は、今は場所を変えて建て直された。この灯台の跡地はローリー夫人が買い取って、貴婦人たちがボート遊びをするときに立ち寄る小屋として使われていた。
 ギュンターもローリー夫人の隣に立って、夜の海を見ながら首を横に振った。
「礼は要らない。私はみつけてやれなかった」
 長い沈黙の中、ローリー夫人とギュンターは言葉少なく、帰らない人を想って立っていた。
 カテリナはその少し後ろで、荒れた姿など想像もつかない優しい波と、普段とは違う弱さをまとった二人の背中を見ていた。
 カテリナには、昼のサロンで冗談半分にやり取りする楽しそうな時間より、サロンを閉じた後の二人の間に流れる沈黙の方が、二人の本音が息づいているように思えた。
 ふいにローリー夫人は顔を伏せて言う。
「そうね。少しだけ恨んでもいるわ。……みつけてほしかったと」
 誰にでも開かれた彼女のサロンのように、ローリー夫人は誰にでも分け隔てなく接する女性だが、彼女は珍しく小さな棘を国王陛下に向けた。
「それでいい。君がそう思うのは当然のことだ」
 その棘を国王陛下も望んでいるように見えるから、カテリナはそこに二人の間だけの感情があるように思うのだ。
 カテリナは、それを大人の世界と片付けるのは少し違うような気がしていた。素直だと言われるカテリナでも、いつも同じ気持ちで過ごしているわけではない。空の色が移り変わるように、二人は重ねてきた時間の中で様々な思いを抱いて来たに違いなかった。
 ローリー夫人は顔を上げてギュンターに告げる。
「最後のダンスのことを話す前に、あなたに言いたい。私はあなたの愛人になるつもりはないわ」
 国王陛下は知っているというようにうなずいた。その次に続けられた言葉も、予期していたようだった。
「ローリーの名を捨ててあなたと結婚するつもりもない。今でも私はヘルベルトを愛しているもの」
 ローリー夫人の名の誇りを告げた彼女は、夫を見失って気落ちしている不幸な女性ではなかった。夜の海の中でも確かな火を灯して船を待つ、灯台のような貴婦人の姿だった。
「でももし……ヘルベルトが精霊の世界のひとになっているなら、今精霊がやって来るのは、偶然のようには思えないの」
 ローリー夫人は遠い夢を仰ぐように空を見て言った。
「精霊は、ダンスで迎えてさしあげなければ。……陛下がお望みなら、最後のダンスのお相手を引き受けます」
 それはローリー夫人に好意を抱く男性にとっては、残酷に違いなかった。カテリナからは国王陛下の表情をうかがうことができなかったが、その背中は彼女の答えを喜んではいなかった。
 カテリナには、ローリー夫人の思いに共感するところもあった。カテリナも誰より大切な人と同じ形になりたくて、本来の自分の形を変えたことがある。
 カテリナは父と同じ仕事をしたいという思いで性別を偽って騎士になった。傍から見たら変かもしれないけれど、カテリナにとっては父と同じ形になること、それが父への愛の返し方だった。
 でもローリー夫人と陛下が同じ形になったらどうだろう?
 二人が手を取り合ってダンスを踊る姿を想像した途端、カテリナの中で鋭い拒否反応が閃いた。
 ギュンターが何か言いかけたとき、カテリナはさっと踵を返していた。
「……カティ?」
 カテリナ自身もどうしてその行動を取ったのかはわからなかった。反射のように呼び止めたギュンターの声は聞こえていたのに、カテリナは部屋の外に出ていた。
 聞きたくない。そう思った自分に、何を聞きたくないのと問い返したら、なんだかわがままのような答えが返ってきた。
 陛下の最後のダンスの相手が決まったら、この仕事は終わりだから。それはずっと思い描いたボードゲームの完成形のはずなのに、奇妙なことに、カテリナ自身はちっとも嬉しくないのだ。
 広がる夜の海は真っ暗で何も見えないようで、カテリナの中の悪いものを全部見通しているような気がする。
 なぜかじわっと視界がにじんだ。その雫を落としてしまったら元には戻れないと思って、急いで手で拭って顔を上げた。
「陛下の恋は、僕が叶えて……」
 誓いのような言葉は最後まで言えなくて、カテリナは背中で扉を閉めた。
 波の音が部屋の中の話し声を消してくれる。それに安心している自分は、望んでも望まなくても、もうこのお役目は御免なのだろう。
「……お父さんに会いたい」
 またにじんできた目をこすって、カテリナは明日お休みを取ることを決めたのだった。
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