ヴァイスラント公国のワルツ~陛下の恋、僕が叶えてみせます!~

18 黒髪の精霊

 社交的で知られるヴァイスラントの人々は、みな行きつけのお店を持っているように、出入りするサロンを持っている。
 そのもっとも代表的なものが王城の中にあるローリー夫人のサロンだが、サロンといえば人々がもう一つ思い浮かべるのが、王妹マリアンヌのサロンだった。
 マリアンヌのサロンは王妹殿下が開いているにもかかわらず、いつも数十人の小さな集まりで、年に数回しか開かれず、しかもどこで開かれているのかほとんど知る者がいない。
 カテリナに名をたずねたギュンターに、マリアンヌは優しく念を押した。
「陛下、名は問わないのがこのサロンの決まりですから」
 そんな小さなサロンなのに、サロンといえば人々が頭の片隅にマリアンヌのサロンを思い出すのは、招かれる人々の素性を詮索しない特別な集まりだからだった。
 その決まりは、精霊たちが名前を呼ばれるのを何より嫌うという言い伝えからきている。ヴァイスラントの建国の功労者である精霊も、気安く名前を呼ばれたことに立腹して王城の泉をピンク色に変えたという逸話が残っている。
 精霊の逸話が本当かどうかはピンク色の泉の所在と共に王城の七不思議のひとつだが、招かれる人々が一般的なサロンに出入りしたがらない人々であるのは事実だった。
 チャールズは許しを得て顔を上げると、マリアンヌに礼を述べた。
「お招きいただき光栄の至りです、殿下」
「私もお会いできてうれしいわ。今夜は、星々もご令嬢のデビューを祝福しているようね。素敵な夜をお過ごしになって」
 マリアンヌもチャールズと短く言葉をやりとりしたものの、サロンで活発に行われる紹介合戦もなく、カテリナに微笑んだだけだった。
 それでサロンのデビューが果たせるのか疑問を持つ者もいるが、名を知らしめてほしい令嬢はちゃんと相応のサロンが用意されている。カテリナとしても、チャールズがこのサロンを選んでくれたのは、父との関係を明かしたくないカテリナの気持ちに添ってくれたとわかっていた。
 ところが凪のようなあいさつを交わした二人とは対照的に、ギュンターが割り込むように言った。
「ま、待ってくれ。少し話がしたいんだ」
 普段呼吸でもするように女性に美辞麗句を贈るはずのギュンターは、言葉に詰まりながら口を開く。
「メイン卿にご令嬢がいらっしゃるとは知らなかった。……精霊と見まごうようなご令嬢だから、今までサロンにお出でにならなかったのかもしれないが」
 ギュンターは焦りながら言葉を重ねて、かといえばらしくない沈黙も作ってしまいながら告げる。
「ただ……驚いてしまった。すまない、誤解させるような言い方だったな。もっとふさわしい言葉があるはずなのに」
 ギュンターは一度目を伏せて、意を決したようにカテリナを見た。
「……お名前を教えてほしい。それで、私にエスコートの役目を与えてくださらないか」
 提案したギュンターの目は真剣で、それが知らない人のようで、カテリナはとっさに目を逸らした。怖いような気持ちになって、ぎゅっとチャールズの腕にすがる。
 マリアンヌとチャールズはギュンターの提案が性急に過ぎると気づいて、それをカテリナが拒んでいることも気づいた。こういった場を取り仕切る立場から、すぐにそれぞれの役目を果たす。
「殿下、少しお時間をいただけませんか」
 遠回しに御前から去ることを提案したチャールズに、マリアンヌはそれでいいというようにうなずいた。
「ええ、ゆるりとお過ごしになって。……お嬢さん、あなたは祝福されているということを忘れないで」
 マリアンヌはチャールズに告げた後カテリナにも声をかけて、カテリナがチャールズと共に歩き去るままに任せた。
 カテリナはチャールズに手を引かれて離れる間、ギュンターが何か言いかけてこらえている気配を感じていた。カテリナはそれに振り向くのが怖くて、泣かないでいるのが精一杯でいるような顔をしていた。
 植木の陰になってギュンターの視線から出たのを確かめると、チャールズは心配そうに言った。
「申し訳ございませんでした、お嬢様。私のわがままでこのような場にお連れして」
 カテリナは元々話すのを得意にしているわけではないが、今の彼女は明らかに緊張していて楽しく談笑できる様子ではなかった。チャールズはカテリナの顔色が優れないのを見て取って、気づかわしげに顔をのぞきこむ。
「それにもっと早くおたずねするべきでした。そのご様子では、国王陛下にお仕えするのはつらかったでしょう」
「ち、違うよ」
 カテリナは顔を上げて、チャールズに言葉を返す。
「陛下は立派な方だよ。尊敬してるんだ」
「お嬢様は同じようなお顔で、前の上司の方も庇っていらっしゃいましたね」
 チャールズは眉を寄せてカテリナをみつめると、よろしいですか、と前置きして告げた。
「チャールズにとってはお嬢様だけがたった一人の姫君です。相手が国王陛下であってもマリアンヌ殿下であっても、お嬢様が快しとしないのであれば、先ほどのように私の手を握ってくださればよいのです」
 カテリナが生まれたときからそこにいて彼女をあやしていたチャールズは、執事というより母親代わりだった。ある種の女性的な勘で誰よりも早くカテリナのことを見抜く彼には、隠し事らしいことができたためしがない。
 カテリナは口をへの字にして、そうじゃないよ、と子どもが言い訳するように言った。
「陛下にお仕えするのは楽しいよ。ちょっとだけ、苦手なだけだよ」
 幸いなことにカテリナは嘘をついたわけではなかった。だからなのか、チャールズは一息ついて目から鋭さを消してくれた。
 チャールズはカテリナの手を取って歩きながら、星に話しかけるように言う。
「仕方のないことなのですよ。私もリリー様に初めてお会いしたときは、精霊が降りていらしたと思いましたから」
「お母さんはきれいな人だったものね」
 チャールズはうなずいたが、少し苦い口調で答えた。
「それは誰もが思ったことでしょう。けれど私がリリー様を仰ぎ見たのは、精霊に対するように特別な思いからでした」
 届かないところにある星を愛おしむように見上げる目で、チャールズはカテリナを見やる。
「「最初のダンスを踊った人とは結ばれない」と言われますね」
 カテリナは侍女たちが話していたことを思い出していた。母が初めてサロンを訪れてダンスを踊った相手は、同じ日に初めてサロンにデビューした貴公子のチャールズだったと。
 侍女たちが一緒に教えてくれたヴァイスラントの古い言い伝えは、少し残酷だと思う。カテリナのそういう思いが目に現れたのか、チャールズは優しく笑った。
「でも私はそれでよかったと思っています。精霊のように可愛らしい子がお生まれになって、育っていくのを今もみつめていられる」
 ふいにチャールズはカテリナの前で一礼すると、いたずらっぽく手を差し伸べる。
「お嬢様、最愛の人とダンスを踊るなんて、私から見たらまだまだ早いですよ。……まずは私と一曲、いかが?」
 カテリナは強張っていた心がその言葉で解けていって、いつものように屈託なく笑った。
「よろこんで」
 手を取り合ったカテリナたちをまもなくワルツの調べが包んで、最初のダンスは始まった。
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