ヴァイスラント公国のワルツ~陛下の恋、僕が叶えてみせます!~
30 見えたもの、抱きしめた形
午後になり、国王陛下の一行が訪れた劇場街ではどこも精霊にまつわる舞台で盛況していた。
ヴァイスラントの建国のときに現れた精霊は、明るく愛嬌たっぷりの性格をしていて、人々に愛される逸話をたくさん残していた。国王に為政者としての心構えや学問を教えた一方で、趣味は買い食いと水浴びで、王が少し目を離すとパンをくわえてもぐもぐしていたとか、儀式の途中で抜け出して、近所の子どもたちと海で泳いでいたとかいう話がいくつも記録されている。
ギュンターはそんな精霊にまつわる舞台を特等席で観劇しながら遠い目をする。
「最後に精霊とダンスを踊るところが、私へのあてつけのように見えるのは気のせいだろうか」
決まって演劇の最後には、初代国王に扮した俳優と精霊に扮した女優がダンスを踊る。ギュンターが半歩後ろに控えていたカテリナに言うと、カテリナは首を傾げて素直に問い返した。
「精霊が望むのは、国王陛下と最愛の人のダンスなのでは?」
「細かいところは気にしないのがヴァイスラントの国民性だからな」
ちなみに演劇の最後には観客も一緒に踊る決まりで、それを国王陛下にも適用するのがヴァイスラントだった。俳優や女優が舞台から降りてくるのを合図にして、劇場前の通りがダンス会場になる。そんなときは街を練り歩いている楽団が、ダンスにリズムを添えてくれる。
ダンスと音楽は兄弟にたとえられるもので、今日は一日中音楽が止むときはこない。ヴァイスラントの人々はダンスと共に音楽が大好きで、もし楽器がなければ手拍子や歌で応じてくれるのだった。
夜には王城で燕尾服の貴公子と着飾った貴婦人が集って正式な舞踏会が開かれるが、真昼の街でのダンスはもっと自由なもので、服装も客も選ばない。ギュンターは明るい緑色の生地に金糸で刺繍されたサーコート姿ではあるが、踊ることを考えてマントはカテリナに預けてある。いつもより表情も気楽で、ダンスの合間には近衛兵と冗談を言い合っていた。
折りたたんだギュンターのマントを抱えて控えていたカテリナに、ギュンターは気楽に言う。
「行ってくる。カティも踊ってこい。マントは椅子にでも置いておけ」
それを聞いたカテリナは、ふと浮き立つ音楽の中で思っていた。
……今なら陛下と私がダンスを踊っても変じゃないかも。なぜかそんな考えがよぎった自分に、カテリナはぶんぶんと首を横に振った。
男の格好をしている自分、しかもお付きの騎士と国王陛下がダンスを踊ったら変に決まっている。いや、普通とか変とか言う以前に、そんなことを望んでいいとは思えない。
なぜってそれは、と自分に言い聞かせる。
「だって私は今日までしかいないんだよ」
お祭りにふさわしくない言葉は心でつぶやいただけだったのに、家々に幾重にも反響するようにして戻ってきた。
カテリナは人波の中で立ち止まって、違和感に気づいた。人々は踊っているのに、音楽が聞こえない。まるで世界が半分切り取られて壁の向こうに行ってしまったように、カテリナは音のない世界に立っていた。
覆いかぶさるような寂しさに震えると、そんなカテリナに声がかかる。
「大丈夫。ただの幼精のいたずらだよ」
ふいに人波から抜けてカテリナに歩み寄ったのは王弟シエルだった。彼が先ほどまで奏でていたリュートを手で弾くと、遠い残響がどこかで鳴って消えた。
カテリナが以前経験したときと同じで、これも夏の怪奇現象でよく聞くものだったのに、自分の声がきっかけでここに落ちてしまったような気がして怖かった。シエルを見返したカテリナの目にその不安が現れたのか、彼は苦笑してうなずく。
「わかるよ。僕も初めて起こったときは怖かった。……覚えてるかな、星読み台で僕と会ったときのこと」
「で、殿下。無理にお話しいただく必要はありません」
カテリナはそのときのシエルの真っ暗な声を思い出して、触れてはいけない話題だと留めた。あのとき「自分など要らない」と王弟殿下が思いつめた理由はわからないが、日々を楽しめるようになったのなら、それでまた傷ついてほしくない。
シエルはカテリナを優しくなだめて言う。
「いいんだ。僕のそのときの悩みはもう終わったこと。でも今は、君にかかったまじないを解いてあげないと」
シエルは噴水の脇に掛けてカテリナを呼んだ。カテリナは少し迷ってから、そっと彼の隣に腰を下ろす。
辺り一面、ダンスに興じる人々に囲まれているのに、音楽がないだけで独りぼっちのような気分だった。湧き上がる噴水も受け止めてくれる音がないと寂しげだった。当たり前にあるものがない世界で、カテリナは迷子の子どものような顔をしていた。
シエルはため息をついて一言告げる。
「兄上は無神経なんだよね」
いきなりシエルが告げた言葉に大きくうなずきかけて、カテリナは慌ててシエルを見返した。
「あ、君もわかるって顔だ。いや、兄上にいいところはいっぱいあるんだよ。よく考えると優しいとか、これ以上ないくらい面倒見がいいとかね。でももうちょっと気を遣ってほしいって思うときがあるんだよね」
「……女性には気を遣っていらっしゃいますよ」
極めて控えめにカテリナが反論すると、シエルはぷっと笑って言った。
「そう、そこ。兄弟でもそうだったんだよ。子どもの頃、姉上は女の子だし隣国から来たばかりでもあったから気を遣ってたんだけど、男兄弟の僕には投げやりそのものでさ。あんまり腹が立ったから、兄上と口を利かないって決めて」
聞いてよかったのかわからない兄弟喧嘩の真相にカテリナが目を回していると、シエルは苦い顔をして告げた。
「今はかえって僕の方が扱いづらそうにしてる。そんなとき、君が兄上と一緒に星読み台に来た。……出会って数日の君の方が、兄上と打ち解けているみたいに見えた」
カテリナは、それは違うとシエルを見返して首を横に振った。
けれどカテリナが言葉にしなくても、今のシエルは彼の兄のことを理解しているようだった。
「そうじゃない。兄上はずっと、心配そうに僕を見ていたよ。それが当たり前になって、僕が見なくなっただけなんだ」
ふいにシエルはカテリナを見て、その瞳に映る世界の形をのぞくようにして首を傾げた。
「君の十日間の仕事は、じきに鳴る日暮れの鐘で終わる。君を縛ることは、この仕事を命じた姉上にだってできないけど」
カテリナがふいに瞳に浮かべた寂しさを見て、シエルは笑った。
「本当に見えないかな。もう君はみつけてると思うんだけど。……僕がそれを証明してみせるよ」
シエルはカテリナを引き寄せて、抱きしめながら頬にキスを落とした。
好き。音のない世界でシエルの声だけが響いて、カテリナは頬を紅潮させながら言っていた。
「ごめんなさい! 私、好きな人がいるんです!」
瞬間、子どもの口笛のような音が聞こえて、世界が生まれ変わるように音楽が溢れかえった。
陽気なリズムと人の笑い声、足音さえもにぎやかで、カテリナは全身でそれを受け止めた。
そんなカテリナとシエルを見て、ギュンターだけが「あ」という口のまま停止した。シエルはくすっと笑って、カテリナの頭をぽんと叩く。
「うん。知ってる」
幼精のいたずらは、キス一つで簡単に解ける。
それは建国のときの王弟殿下、つまり初代星読み博士が発明した伝統的な方法だったが、国王陛下に大誤解を招いたようだった。
シエルは晴れやかに笑って、またカテリナの額にキスを落とした。
「だから意地悪したくなったんだ」
とはいえこれも、伝統的なヴァイスラントの兄弟喧嘩の一幕なのだった。
ヴァイスラントの建国のときに現れた精霊は、明るく愛嬌たっぷりの性格をしていて、人々に愛される逸話をたくさん残していた。国王に為政者としての心構えや学問を教えた一方で、趣味は買い食いと水浴びで、王が少し目を離すとパンをくわえてもぐもぐしていたとか、儀式の途中で抜け出して、近所の子どもたちと海で泳いでいたとかいう話がいくつも記録されている。
ギュンターはそんな精霊にまつわる舞台を特等席で観劇しながら遠い目をする。
「最後に精霊とダンスを踊るところが、私へのあてつけのように見えるのは気のせいだろうか」
決まって演劇の最後には、初代国王に扮した俳優と精霊に扮した女優がダンスを踊る。ギュンターが半歩後ろに控えていたカテリナに言うと、カテリナは首を傾げて素直に問い返した。
「精霊が望むのは、国王陛下と最愛の人のダンスなのでは?」
「細かいところは気にしないのがヴァイスラントの国民性だからな」
ちなみに演劇の最後には観客も一緒に踊る決まりで、それを国王陛下にも適用するのがヴァイスラントだった。俳優や女優が舞台から降りてくるのを合図にして、劇場前の通りがダンス会場になる。そんなときは街を練り歩いている楽団が、ダンスにリズムを添えてくれる。
ダンスと音楽は兄弟にたとえられるもので、今日は一日中音楽が止むときはこない。ヴァイスラントの人々はダンスと共に音楽が大好きで、もし楽器がなければ手拍子や歌で応じてくれるのだった。
夜には王城で燕尾服の貴公子と着飾った貴婦人が集って正式な舞踏会が開かれるが、真昼の街でのダンスはもっと自由なもので、服装も客も選ばない。ギュンターは明るい緑色の生地に金糸で刺繍されたサーコート姿ではあるが、踊ることを考えてマントはカテリナに預けてある。いつもより表情も気楽で、ダンスの合間には近衛兵と冗談を言い合っていた。
折りたたんだギュンターのマントを抱えて控えていたカテリナに、ギュンターは気楽に言う。
「行ってくる。カティも踊ってこい。マントは椅子にでも置いておけ」
それを聞いたカテリナは、ふと浮き立つ音楽の中で思っていた。
……今なら陛下と私がダンスを踊っても変じゃないかも。なぜかそんな考えがよぎった自分に、カテリナはぶんぶんと首を横に振った。
男の格好をしている自分、しかもお付きの騎士と国王陛下がダンスを踊ったら変に決まっている。いや、普通とか変とか言う以前に、そんなことを望んでいいとは思えない。
なぜってそれは、と自分に言い聞かせる。
「だって私は今日までしかいないんだよ」
お祭りにふさわしくない言葉は心でつぶやいただけだったのに、家々に幾重にも反響するようにして戻ってきた。
カテリナは人波の中で立ち止まって、違和感に気づいた。人々は踊っているのに、音楽が聞こえない。まるで世界が半分切り取られて壁の向こうに行ってしまったように、カテリナは音のない世界に立っていた。
覆いかぶさるような寂しさに震えると、そんなカテリナに声がかかる。
「大丈夫。ただの幼精のいたずらだよ」
ふいに人波から抜けてカテリナに歩み寄ったのは王弟シエルだった。彼が先ほどまで奏でていたリュートを手で弾くと、遠い残響がどこかで鳴って消えた。
カテリナが以前経験したときと同じで、これも夏の怪奇現象でよく聞くものだったのに、自分の声がきっかけでここに落ちてしまったような気がして怖かった。シエルを見返したカテリナの目にその不安が現れたのか、彼は苦笑してうなずく。
「わかるよ。僕も初めて起こったときは怖かった。……覚えてるかな、星読み台で僕と会ったときのこと」
「で、殿下。無理にお話しいただく必要はありません」
カテリナはそのときのシエルの真っ暗な声を思い出して、触れてはいけない話題だと留めた。あのとき「自分など要らない」と王弟殿下が思いつめた理由はわからないが、日々を楽しめるようになったのなら、それでまた傷ついてほしくない。
シエルはカテリナを優しくなだめて言う。
「いいんだ。僕のそのときの悩みはもう終わったこと。でも今は、君にかかったまじないを解いてあげないと」
シエルは噴水の脇に掛けてカテリナを呼んだ。カテリナは少し迷ってから、そっと彼の隣に腰を下ろす。
辺り一面、ダンスに興じる人々に囲まれているのに、音楽がないだけで独りぼっちのような気分だった。湧き上がる噴水も受け止めてくれる音がないと寂しげだった。当たり前にあるものがない世界で、カテリナは迷子の子どものような顔をしていた。
シエルはため息をついて一言告げる。
「兄上は無神経なんだよね」
いきなりシエルが告げた言葉に大きくうなずきかけて、カテリナは慌ててシエルを見返した。
「あ、君もわかるって顔だ。いや、兄上にいいところはいっぱいあるんだよ。よく考えると優しいとか、これ以上ないくらい面倒見がいいとかね。でももうちょっと気を遣ってほしいって思うときがあるんだよね」
「……女性には気を遣っていらっしゃいますよ」
極めて控えめにカテリナが反論すると、シエルはぷっと笑って言った。
「そう、そこ。兄弟でもそうだったんだよ。子どもの頃、姉上は女の子だし隣国から来たばかりでもあったから気を遣ってたんだけど、男兄弟の僕には投げやりそのものでさ。あんまり腹が立ったから、兄上と口を利かないって決めて」
聞いてよかったのかわからない兄弟喧嘩の真相にカテリナが目を回していると、シエルは苦い顔をして告げた。
「今はかえって僕の方が扱いづらそうにしてる。そんなとき、君が兄上と一緒に星読み台に来た。……出会って数日の君の方が、兄上と打ち解けているみたいに見えた」
カテリナは、それは違うとシエルを見返して首を横に振った。
けれどカテリナが言葉にしなくても、今のシエルは彼の兄のことを理解しているようだった。
「そうじゃない。兄上はずっと、心配そうに僕を見ていたよ。それが当たり前になって、僕が見なくなっただけなんだ」
ふいにシエルはカテリナを見て、その瞳に映る世界の形をのぞくようにして首を傾げた。
「君の十日間の仕事は、じきに鳴る日暮れの鐘で終わる。君を縛ることは、この仕事を命じた姉上にだってできないけど」
カテリナがふいに瞳に浮かべた寂しさを見て、シエルは笑った。
「本当に見えないかな。もう君はみつけてると思うんだけど。……僕がそれを証明してみせるよ」
シエルはカテリナを引き寄せて、抱きしめながら頬にキスを落とした。
好き。音のない世界でシエルの声だけが響いて、カテリナは頬を紅潮させながら言っていた。
「ごめんなさい! 私、好きな人がいるんです!」
瞬間、子どもの口笛のような音が聞こえて、世界が生まれ変わるように音楽が溢れかえった。
陽気なリズムと人の笑い声、足音さえもにぎやかで、カテリナは全身でそれを受け止めた。
そんなカテリナとシエルを見て、ギュンターだけが「あ」という口のまま停止した。シエルはくすっと笑って、カテリナの頭をぽんと叩く。
「うん。知ってる」
幼精のいたずらは、キス一つで簡単に解ける。
それは建国のときの王弟殿下、つまり初代星読み博士が発明した伝統的な方法だったが、国王陛下に大誤解を招いたようだった。
シエルは晴れやかに笑って、またカテリナの額にキスを落とした。
「だから意地悪したくなったんだ」
とはいえこれも、伝統的なヴァイスラントの兄弟喧嘩の一幕なのだった。