ヴァイスラント公国のワルツ~陛下の恋、僕が叶えてみせます!~
8 少しの時間と小さな奇跡
カーテンごしに白い光を浴びて大きく伸びをしてから、カテリナは清々しい朝の空気を吸い込んだ。
物心ついてからというもの、およそ高い熱を出したこともなければ寝込んだこともないカテリナ、その健康の秘訣は事が大きくなる前の察知能力と、潔い撤退にあった。カテリナの大きく澄んだ心の目は自分の体に負荷がかかっていることを誰より早く見抜き、どんな楽しみがあろうと予定があろうと、布団をかぶって寝る健康第一習慣を身に着けていた。
慣れない陰の空気、好きじゃない酒の匂いを感じたときから、歯向かうのも鬱屈するのもやめた。そういう自分に、ちょっとだけ呆れることもある。
自分は事が起こったときに戦えないんじゃないかな。本当は騎士に向いてないのかもしれないと。
カテリナの上の二段ベッドでもぞりと動く気配がして、カテリナに声が投げかけられる。
「カティ、起きた?」
カテリナはここが騎士団寮の自室だと気づいて慌てた。騎士団は女人禁制ではないが、男として入隊した以上、本来の性別を知られるわけにはいかない。
カテリナはほとんど平らの胸の一番上までボタンが留まっているか一応確認すると、ベッドに下がるカーテンの隙間から顔を出して言う。
「おはようございます。ウィラルドさま、昨日はありがとうございました」
二段ベッドの上で、ウィラルドは気安く笑って返す。
「やめてくれよ。今の俺はカティの上官じゃないんだから」
ウィラルドは器用に片方の眉だけ上げて、ふと気づいたように顎をしゃくって何かを伝えてきた。
胸は見えていなかったが、はだけた肩に下ろした黒髪がそのまま流れていた。カテリナの体型は無理に偽らなくとも少年じみているが、光を抱いているような豊かで滑らかな黒髪は成長するにつれて女性的になっていて、普段はなるべく小さくなるように縛って、帽子の中に隠していた。
カテリナには、髪だけでは性別はわからないと言い切れる自信がない。一瞬ウィラルドが困ったように目を逸らしたために、カテリナの中に焦りがこみあげた。
「着替えます。すぐ終わりますから」
「いいよ。焦るな」
また伸びてきちゃった、そろそろ色も染めないといけないと思いながら、カテリナは慌てて着替えを始めた。
カーテンに囲まれた限られた空間で手早く着替えるのは慣れているが、誰か様子を見に来たらと思うときはあった。学生の頃はもっと無遠慮にお互いの部屋に入り込む同級生もいたのに、その焦りは年々増している気がする。
「大丈夫だよ、カティ。この年で着替えなんて覗く奴いないよ」
カテリナは、たぶんウィラルドには本来の性別を知られているとわかっていた。
ウィラルドとカテリナは、学生時代からずっと同室で寝食を共にしてきた。頑なにいつもカーテンを引いて二段ベッドの下にこもり、着替えをするカテリナを見てきて察しがつかないほど、ウィラルドは周りが見えない人じゃない。
もしかしたら同僚たちだって知っているのかもしれないが、誰もカテリナにそのことを言わなかったし、貶めるようなこともしなかった。ちょうど平和な時代に生まれたのを誰に感謝すればいいのかわからないように、カテリナは誰一人名乗りを上げずに今の彼女のままでいさせてくれたことを周りに感謝している。
いつまでそういう周りの優しさに甘えているの? 時々カテリナの中には後ろめたさが飛来して、心を刺す。
父との関係を伏せている人は他にもいるだろう。騎士になったことだって、それ自体が悪いこととは思わない。けれどそういう選択を取ってきたカテリナをずっと心配してきた人を、カテリナは確実に一人知っている。
「そういえば最終日は実家に帰るんだってな。親父さんが喜ぶよ」
ウィラルドの言葉に、カテリナは喉元のボタンを留める手を一瞬だけ止めた。
誰に何を返せばいいのかはわからない。でもカテリナは父にだけは、いつか自分にできる精一杯の贈り物を返したいと思っていた。
一度息を吸ってボタンを留めると、カテリナはうなずいて、カーテンを引いた。
「……僕は最後のワルツを誰と踊るかは、もう決めてるんです」
ウィラルドが問い返す前に、カテリナはいつもの騎士団服を一分の乱れもなくきちんと着て、二段ベッドの脇に立っていた。
「仕事に行ってきます!」
晴れやかに宣言して敬礼をすると、カテリナは駆け足で寮を出た。
祝祭の最後の日に、自分は性別を明かそう。父との関係も周りに明らかにしよう。
……その結果騎士をやめなければいけないことになっても、それは星が決めた運命なのだから、受け入れて次の道に走り出そう。
四階まで階段を上り回廊を渡り、顔なじみになった近衛兵に敬礼して、その部屋をノックする。
返事がなくて近衛兵を振り向いたが、彼はどうぞと合図を送ってきた。カテリナは首をかしげながら陛下の自室に立ち入る。
いつになく早い時間だからまだ眠っている可能性も想像したが、ギュンターは既に自席に着いて書面仕事をしていた。
カテリナはあいさつを口にして席につけばよかったのに、余分な一言も付け加えた。
「おはようございます。朝食は召し上がったのですか」
反射的に心配したのはカテリナの職務ではないし、陛下に失礼な一言かもしれなかった。
けれどカテリナはつい思ってしまった。この人、誰か止めないと体を壊すんじゃないだろうか。自分がこの任を離れた後、ちゃんと止めてくれる人はいるんだろうか。
「体調は良くなったのか」
そんな心配は余計なお世話だとわかっていたけど、それを言うなら開口一番問われたことだって、別に彼が言わなくてもいいことのように思った。
一騎士が国王陛下の最愛の人を決められるはずもなく、彼がもう決めてしまったカテリナの選択を変えられるとも、もちろん思わなかった。
ギュンターはカテリナのすっきりした顔を見て安心したようで、カテリナの答えを聞くことなくうなずいた。
「あまり時間がない。今日は星読み台へ向かう仕事があるからな。急いで事務仕事を片付けるぞ」
けれどカテリナにはあと八日間、陛下の最愛の人を見極める仕事があって、祝祭の後のカテリナの未来は精霊だけが知っている。
カテリナもうなずき返してギュンターに答えた。
「お望みのとおりに」
もしかしたらふいに星が降るように小さな奇跡が待っているかもしれないと信じて、カテリナは今日も自分の席につく。
物心ついてからというもの、およそ高い熱を出したこともなければ寝込んだこともないカテリナ、その健康の秘訣は事が大きくなる前の察知能力と、潔い撤退にあった。カテリナの大きく澄んだ心の目は自分の体に負荷がかかっていることを誰より早く見抜き、どんな楽しみがあろうと予定があろうと、布団をかぶって寝る健康第一習慣を身に着けていた。
慣れない陰の空気、好きじゃない酒の匂いを感じたときから、歯向かうのも鬱屈するのもやめた。そういう自分に、ちょっとだけ呆れることもある。
自分は事が起こったときに戦えないんじゃないかな。本当は騎士に向いてないのかもしれないと。
カテリナの上の二段ベッドでもぞりと動く気配がして、カテリナに声が投げかけられる。
「カティ、起きた?」
カテリナはここが騎士団寮の自室だと気づいて慌てた。騎士団は女人禁制ではないが、男として入隊した以上、本来の性別を知られるわけにはいかない。
カテリナはほとんど平らの胸の一番上までボタンが留まっているか一応確認すると、ベッドに下がるカーテンの隙間から顔を出して言う。
「おはようございます。ウィラルドさま、昨日はありがとうございました」
二段ベッドの上で、ウィラルドは気安く笑って返す。
「やめてくれよ。今の俺はカティの上官じゃないんだから」
ウィラルドは器用に片方の眉だけ上げて、ふと気づいたように顎をしゃくって何かを伝えてきた。
胸は見えていなかったが、はだけた肩に下ろした黒髪がそのまま流れていた。カテリナの体型は無理に偽らなくとも少年じみているが、光を抱いているような豊かで滑らかな黒髪は成長するにつれて女性的になっていて、普段はなるべく小さくなるように縛って、帽子の中に隠していた。
カテリナには、髪だけでは性別はわからないと言い切れる自信がない。一瞬ウィラルドが困ったように目を逸らしたために、カテリナの中に焦りがこみあげた。
「着替えます。すぐ終わりますから」
「いいよ。焦るな」
また伸びてきちゃった、そろそろ色も染めないといけないと思いながら、カテリナは慌てて着替えを始めた。
カーテンに囲まれた限られた空間で手早く着替えるのは慣れているが、誰か様子を見に来たらと思うときはあった。学生の頃はもっと無遠慮にお互いの部屋に入り込む同級生もいたのに、その焦りは年々増している気がする。
「大丈夫だよ、カティ。この年で着替えなんて覗く奴いないよ」
カテリナは、たぶんウィラルドには本来の性別を知られているとわかっていた。
ウィラルドとカテリナは、学生時代からずっと同室で寝食を共にしてきた。頑なにいつもカーテンを引いて二段ベッドの下にこもり、着替えをするカテリナを見てきて察しがつかないほど、ウィラルドは周りが見えない人じゃない。
もしかしたら同僚たちだって知っているのかもしれないが、誰もカテリナにそのことを言わなかったし、貶めるようなこともしなかった。ちょうど平和な時代に生まれたのを誰に感謝すればいいのかわからないように、カテリナは誰一人名乗りを上げずに今の彼女のままでいさせてくれたことを周りに感謝している。
いつまでそういう周りの優しさに甘えているの? 時々カテリナの中には後ろめたさが飛来して、心を刺す。
父との関係を伏せている人は他にもいるだろう。騎士になったことだって、それ自体が悪いこととは思わない。けれどそういう選択を取ってきたカテリナをずっと心配してきた人を、カテリナは確実に一人知っている。
「そういえば最終日は実家に帰るんだってな。親父さんが喜ぶよ」
ウィラルドの言葉に、カテリナは喉元のボタンを留める手を一瞬だけ止めた。
誰に何を返せばいいのかはわからない。でもカテリナは父にだけは、いつか自分にできる精一杯の贈り物を返したいと思っていた。
一度息を吸ってボタンを留めると、カテリナはうなずいて、カーテンを引いた。
「……僕は最後のワルツを誰と踊るかは、もう決めてるんです」
ウィラルドが問い返す前に、カテリナはいつもの騎士団服を一分の乱れもなくきちんと着て、二段ベッドの脇に立っていた。
「仕事に行ってきます!」
晴れやかに宣言して敬礼をすると、カテリナは駆け足で寮を出た。
祝祭の最後の日に、自分は性別を明かそう。父との関係も周りに明らかにしよう。
……その結果騎士をやめなければいけないことになっても、それは星が決めた運命なのだから、受け入れて次の道に走り出そう。
四階まで階段を上り回廊を渡り、顔なじみになった近衛兵に敬礼して、その部屋をノックする。
返事がなくて近衛兵を振り向いたが、彼はどうぞと合図を送ってきた。カテリナは首をかしげながら陛下の自室に立ち入る。
いつになく早い時間だからまだ眠っている可能性も想像したが、ギュンターは既に自席に着いて書面仕事をしていた。
カテリナはあいさつを口にして席につけばよかったのに、余分な一言も付け加えた。
「おはようございます。朝食は召し上がったのですか」
反射的に心配したのはカテリナの職務ではないし、陛下に失礼な一言かもしれなかった。
けれどカテリナはつい思ってしまった。この人、誰か止めないと体を壊すんじゃないだろうか。自分がこの任を離れた後、ちゃんと止めてくれる人はいるんだろうか。
「体調は良くなったのか」
そんな心配は余計なお世話だとわかっていたけど、それを言うなら開口一番問われたことだって、別に彼が言わなくてもいいことのように思った。
一騎士が国王陛下の最愛の人を決められるはずもなく、彼がもう決めてしまったカテリナの選択を変えられるとも、もちろん思わなかった。
ギュンターはカテリナのすっきりした顔を見て安心したようで、カテリナの答えを聞くことなくうなずいた。
「あまり時間がない。今日は星読み台へ向かう仕事があるからな。急いで事務仕事を片付けるぞ」
けれどカテリナにはあと八日間、陛下の最愛の人を見極める仕事があって、祝祭の後のカテリナの未来は精霊だけが知っている。
カテリナもうなずき返してギュンターに答えた。
「お望みのとおりに」
もしかしたらふいに星が降るように小さな奇跡が待っているかもしれないと信じて、カテリナは今日も自分の席につく。