とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
 晩餐の席で聖が卒業試験の成績表を見せると、正義と澄子は目を剥いて驚いていた。

 それもそのはずだ。聖は今まで成績が悪いふりをしていたのだから。

「さすが私の娘だ! あの難しいと言われている卒業試験で満点とは……鼻が高い!」

「やっぱりあの家庭教師の方がよかったのかしらねぇ」

「そうだろう、我が社でも選りすぐりの優秀な社員だからな!」

 二人はそんなことに気付くわけもなく、ひたすら本堂と聖を褒め称えた。

「よかったわねあなた。これで来月の創立記念パーティで発表できるわ」

「ああ、そうだな」
 
「お父様、お母様、なんのこと?」

 聖は白々しく尋ねた。恐らくある程度察しているはずだ。大学を出た自分がどこの会社に就職するか。誰も何も言わなかったのは、既に決まっているから。分かりきった答えた。

「聖、お前ももう社会人だ。跡を継ぐまでの間私の補佐としてしっかり勉強しなさい」

「少し不安だったのだけれど、この成績なら何の問題もないわ。そのパーティでお披露目をしようと思っているの」

「そんな……私にはまだ早いわ。お父様の足元にも及ばないのに……」

 などと言いながらも、きっと心の中では舌を突き出していることだろう。あの顔は絶対に嫌だと思っている顔だ。しかし、口に出すはずもない。

「だからそこだ。会社の中にいれば学ぶことも多いだろう。補佐役をつけよう。安心して勉強するといい」

「ありがとうございますお父様、お母様。私会社のために頑張るわね」

 聖はニッコリと笑って返事した。俊介はその後ろで少しばかり俯いた。

 これで聖の自由時間がまた一つ────いや、ほとんど削られた。
 
 まだ大学を卒業したばかりの聖に社長の補佐をしろなんてふざけているにも程があるが、正義の決定は誰も覆せない。

 聖の笑顔が硬いので、俊介は少し心配だった。

 視線を送ると、気付いた聖が目配せした。私の人生終わったわ────まるで、そんな顔をしているように見える。

 聖が忙しくなれば俊介も忙しくなる。俊介も覚悟した。

 胸いっぱいで食事が喉を通りませんと言い訳して、聖は部屋へ戻った。

 俊介は食後のお茶を淹れ、聖の部屋へ向かう。その途中で聖の部屋から何か叫び声のようなものが小さく聞こえた。

 俊介は聞こえないふりをして、平常通り扉ををノックして中に入った。

「────聞こえた?」

 聖はベッドにうつ伏せになっていた。彼女の叫びを聞いてくれたのはどうやらその下に敷かれているベッドらしい。

「何がだ?」

 何も聞いていないフリをして、俊介はお茶の用意をした。

「なんでもない」

「ほら、お前の好きなもの持ってきたぞ」

「砂糖の塊みたいなマカロンとかならいらないからね」

 聖はジロリと睨んだが、俊介がポットの中から取り出したものを見ると勢いよくベッドから飛び起きた。

「感謝しろよな。ポットが煎餅臭くなって怒られたらお前のせいにするぞ」

 ポットの中に詰め込んだセロファンの包みを皿に取り出して聖に渡すと、聖は今日一番嬉しそうな顔をしてみせた。

 聖の大好物、ぬれ煎餅だ。

 一袋九十グラム。値段は俊介が見た中で一番高いものを選んだが、それでも千五◯◯円税抜きだ。聖が普段食べている菓子類に比べれば、格段に安い。

 だが、聖はそんなことはどうでもいいらしい。嬉しそうに包みを開けた。

「これこれ! やっぱりこういうお菓子が一番美味しいのよね」

「ぬれ煎餅とかジジくさいもの食べるお嬢様なんて聞いたことないぞ」

「ごちゃごちゃうるさいわよ! 美味しいものにお嬢様もへったくれもないでしょ」

「お礼は?」

「ありがと俊介、いい息抜きになった」

「そうしてた方がお前も年頃の女に見えるのにな」

 食べ物の趣味はジジくさいが、それでも嬉しそうにぬれ煎餅をかじっている聖を見ると、普段の聖が本当に嘘なのだと改めて思った。

 何枚もの仮面をかぶってなりきる「藤宮の跡取り」は自分には出来ない芸当だ。

 信じられないくらいのストレスを受けて生活している聖のために自分が出来ることなんてこれくらいしかない。

 それでも、執事だからこそこうすることができる。

 気丈に振る舞う聖が崩れないように、そばで見守る役目。それが幼馴染として、執事として自分に課せられた役目だと思っていた。
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