とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
机の上の呼び鈴を鳴らすと一分以内にドアをノックする音が聞こえた。
部屋の扉が開かれると、そこにいた若い執事がうやうやしく頭を下げた。
「お呼びでしょうか聖様」
「自習しに行くわ。『資料を探すから手伝って』」
用件を伝えると、執事は静かに頷いた。
「……かしこまりました」
執事は聖のテーブルの上に置かれた教材や筆記用具を集めて聖の後に続いて歩いた。
長い廊下を進んだ先に豪華な装飾が施された扉が見えると、執事が先に扉を開けた。
資料室と呼ばれているそこは、図書館のように大きな棚が一面壁を覆い、ぎっしりと本が埋まっている。
聖は部屋の中央に置かれた机には目もくれず、まっすぐ部屋の隅に向かうとやがて床に座り込んだ。
「二時間経ったら起こしに来て。おやすみなさい」
「聖……いい加減にしないと旦那様に怒られるぞ」
先程までうやうやしい態度を取っていた執事────青葉俊介が呆れ顔でたしなめる。
「今更でしょ」
「知られてないからいいものの……見つかったら俺はクビなんだぞ?」
「じゃあクビにされないように俊介が秘密を守ってくれたらいいじゃない」
「そういう問題じゃないだろ」
聞く気のない聖の態度を見て諦めたらしい。俊介は部屋を出た。
「……相変わらず真面目なんだから」
俊介とは執事と主人という関係だが、同時に幼馴染でもあった。
青葉家は代々藤宮家に仕えており、俊介は幼い頃から聖の遊び相手として家に上がっていた。
そういう経緯もあって、俊介は大学卒業後すぐに聖専属の執事として雇われた。
真面目で妥協のない性格は執事向きだが、その堅苦しいところがたまにキズだ。
だが、それもこの関係性上仕方なかった。
「資料を探すから」、というのは聖の隠語で実際はサボりますという意味だ。それを知っているのも、黙認してくれるのも、この屋敷には俊介しかいない。
自室だと定期的に誰かがきて、ティータイムだと称して必要のないお茶を持ってきたり有名店の菓子を選ばせてくれたりするが、聖は甘いものは嫌いだ。集中しているのに邪魔が入ると、おちおち勉強もしていられない。
要は監視に近い体制で常に見張られている。表向きはそうではないが、実質監視に近かった。
自習していることにしておけばうるさい執事長もメイドも来ないし、自由に過ごせる。
ここで出来ることなんて寝るくらいしかなかったが、一日のスケジュールを細かく決められている聖には、その数時間ですら貴重だった。
きっかり二時間経った頃、俊介が起こしに来た。聖の今日の自由時間は終わった。
「ありがとう、俊介」
「お前もストレス溜まるんだろうけど、何かで発散するとかしないとそのうち胃潰瘍になるぞ」
「だから睡眠で発散してるんじゃない。ささやかな楽しみを邪魔しないで」
「年頃の女が、居眠りでストレス発散か」
「何? じゃあ同級生みたいに優雅にバレエ鑑賞会や一等客船を貸し切って女子会しろっていうの? 冗談じゃない」
「誰もそんなこと言ってないだろ」
「俊介が思うような発散方法は私は許可されてないんだから仕方ないじゃない」
「まったく……」
あと二十分後にはピアノ教師が来てレッスンだ。そのあとは──聖は考えなくても一週間の予定が暗唱できた。
ため息ひとつついて、部屋へ戻った。