とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
 俊介が駐車場に車を駐めている間に、聖は休憩用に予約していた部屋に向かった。

 落ち着こうと思い部屋の中にコーヒーメーカーを探したが、使い方がよくわからなくて結局やめた。

 こんな格好では寝ころぶことも背もたれにもたれることも出来ない。休憩室をとった意味もない。

 十分ほど待っていると俊介が入ってきた。

「旦那様と奥様もご到着だ」

「そう、あの人たちは心配はいらないでしょ」

「コーヒーいるか?」

「俊介が淹れてくれるの?」

「どうせお前のことだからわざわざ一杯頼むために電話入れるのも面倒だと思ったんだろう?」

「さすが俊介。私のことわかってる」

「インスタントコーヒーがあるだろう。それでいいか?」

「うん」

 俊介は慣れた様子でコーヒーメーカーを起動させた。どうやら置かれていた専用の容器をセットして使うものらしい。

 用意されたコーヒーが目の前に置かれる。聖は恐る恐る口をつけた。

 いつも飲むコーヒーよりも香りは薄いが、聖にとってはワクワク感が最高のスパイスだ。たとえ安物であろうと、美味しいと思えた。

 ────インスタントコーヒーの淹れ方も分からないなんて。

 あまりの世間知らずっぷりに自分でも呆れてしまう。

 正義のように物の良し悪しにはこだわっていない。お嬢様でも普通の生活がしたいと思っているし、泊まるのだってこんな高級ホテルよりも安いビジネスホテルでいい。四六時中誰かといるよりも一人でいたいし、買い物は百貨店よりもスーパーに行ってみたい。

 俊介はそれをあまり快く思っていないが、自分にとってそれらは憧れだった。



 開会十分前。だだっ広い宴会場には藤宮グループの母体企業とも呼ぶべき『藤宮コーポレーション』の五百名を超える社員達が集まっていた。

 社員達は各部署ごとに席が振られ、正義と聖はステージに向かって右側に席を用意されている。

 普段厳しく言われているのだろう。正義が会場入りした途端、社員は皆口を噤み姿勢を正した。

 聖はその中にいた本堂を見つけて、ほんの少しだけ気分を持ち直した。本堂の席はかなり前の方だ。本堂も聖を見て、いつもの笑みを見せた。

 定刻になると司会者がマイクをとった。

 長ったらしい会社の歴史の一部を語ると、代表取締役である正義が話し始める。

 つまらない話を聞きながら、誰かの携帯でも鳴れば面白いのにと思ったが、生憎そんな社員はいなかった。

 欠伸を噛み殺しながらなんとか正義と主賓の挨拶を聞いて、これからさらに定期報告を各部署ごとにしていくわけだから、自分だけでなく社員全員が眠気との戦いだ。

 机の下で手の甲をつねりながらなんとか笑顔を保ち、十分間の休憩でようやく息を吐いた。

「聖様、大丈夫ですか」

 後ろから俊介に声を掛けられ、ニッコリと笑みを返して見え透いた虚勢を張る。

 皆が見ている前で疲れた、ともめんどくさいとも言えず、俊介も気遣うことしかできない。

 確かに眠いと思っていたが、後ろで立ちっぱなしの俊介のことを思えば自分はまだマシだ。

 始まってから三時間ほど経過した。

 面倒な報告会がようやく終わり、会食の時間になった。場所を移し、社員達も賑やかに喋りながら食事を始めた。

 途中で司会者の声が入り、今期の優秀な社員を表彰していく。永年勤続表彰、営業獲得表彰、社内コンテスト表彰、技能表彰など、次々と壇上に呼ばれ、みな表彰状と金一封を渡される。

 社員達はこれを目指して仕事していると言っても過言ではなかった。

 表彰されれば正義の目にも留まる。まさに絶好のアピールチャンスだ。

 ひと段落ついたところで、また司会者が話し始めた。

「それでは続いて来期からの人事異動についての報告です。こちらは藤宮代表取締役から直接お話しいただきます。それでは、藤宮代表取締役、宜しくお願い致します」

 再び正義が壇上に上がり、また長々と話を始めた。

 ここで来期から聖が入社する話がされる。待っていると、話始めてすぐに聖の名前が出た。

「皆も知っていると思うが、娘の聖が来期から我が社に入社する。未来の藤宮コーポレーションを牽引するものとしてしばらくは私の下について勉強して貰う。皆もそのつもりでいてくれ」

 社員達から拍手が起こる。きっと本当はうんざりしているに違いない。

 聖は笑顔を顔に貼り付けながら心の中でため息をついた。未来の自分に絶望しながら、また話に耳を傾ける。

「それにあたって我が社から補佐役を付けることにした。将来的には聖の右腕として会社を支えるものとしてこれからの業務に励んでほしい。まず、本社から海外事業部所属、本堂一。彼には既に聖の家庭教師として働いてもらっているが非常に優秀だ。このまま聖のそばで補佐役として働いて貰うこととする」

 ────えっ!?

 聖は驚いて本堂の方を見た。本堂は知っていたのか、特に驚いているふうではない。正義の話はまだ続いた。

「そしてもう一人。社員ではないが、聖の執事をしている青葉俊介。彼も非常に優秀なマネジメント能力を有している。聖の秘書として会社でも支えてやってくれ。」

 続いて────と司会が別の人事異動の話を始めるが、聖はそれどころではなかった。話が終わって、聖は俊介と本堂を。俊介は本堂の方を見ていた。

 本堂は聖と俊介を見てニヤリと笑った。

 聖は複雑だった。面倒くさい仕事が増えるのは嫌だが、本堂や俊介といるならまだ我慢できる。まさかそれを分かって正義は彼らを選んだのだろうか。いや、そんなことはないだろう。

 逃れることのできない流れに逆らうつもりもない。今まで通り卒なくこなすだけだ。

 正義が壇上の中心から退いて、聖は挨拶をするために壇上へ上がった。

 大勢の前に立って緊張するのは普通のことだ。だが、聖は慣れきっているせいでなんとも思わなかった。こんなシーンは何度も経験しているし、今更緊張はしない。

 向けられる視線はいつも同じだ。藤宮家のご令嬢、次期取締役、跡取り、目の上のたんこぶ────言い方は様々だが、聖の上には「藤宮」が重くのしかかっていた。

 大学卒業を目前にしているとはいえ、重いポジションだ。分不相応だと、この場にいる社員達も思っているに違いない。

 聖は心を落ち着かせると、静かに話し始めた。

「この度来期より藤宮代表取締役の補佐として入社することになりました藤宮聖と申します。本社には何度か伺うこともありご存知の方もいらっしゃると思います」

 ご存知も何も、誰もが知っている。

 正義は常日頃から聖を次期取締役だと言っているし、学生の頃から娘を会社の勉強会に連れてきていれば社員も当然覚えるだろう。

「しばらくは父の元で経営のノウハウを学ばさせて頂きますが、私の代で藤宮コーポレーションをもっと大きくできるよう皆様のお力も借りたいと思います」

 さもそれらしいことを言って見せたが、聖は会社を大きくしたいとは思っていなかった。

 本当は早く潰れれば有り難いのだが、大勢いる社員が露頭に迷うのは心が痛い。規模があまりにも大きすぎて、自分一人の考えで会社をたたむことなんてできるわけがなかった。

 月並みな挨拶を終えたあと席に戻ると、正義も澄子も満足そうに笑っていた。それを見ると、聖はまた悲しい気持ちになった。

 ────藤宮の跡取り娘。それが私の名前。

 聖、と。そう呼んでくれるのはもう俊介か本堂しかいなかった。

 自分よりはるかに年が上の人間でも聖様と呼び、レディファーストだと席を譲られ、会社に行けば自分の前を歩く者はいない。

 誰かが横に並んで歩くことは、ない。誰も横に立って歩いてなどくれない────。

 ここにいる者のほとんどがそうだろう。自分のことを、そういう目でしか見てくれない人間ばかりだ。

 本気の感情を向けてくれない。表面的な、本心じゃないもの。

 ずっと望んでいた。怒ったりはしないから、嘘をつかないで欲しい。見下したりもしないから、素直に話してくれればいい。そこに入りたい。その中に溶け込みたい、と。

 会食の賑やかな席の中で、聖は一人唇を噛み締めた。


   
< 20 / 96 >

この作品をシェア

pagetop