とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
 この頃、本堂の朝のルーティーンは決まっていた。

 エントランスを抜け、受付を通り過ぎ、一階にあるコンビニでコーヒーを買って高層階直通のエレベーターに乗る。早朝の少しモヤがかかった景色を見ながら眠たい目をこする。
 
 エレベーターを出て一番手前の部屋が、本堂の仕事場だ。

 専用のカードキーを使ってロックを解除すると、見晴らしのいい一面ガラス張りの部屋がある。

 このフロアは聖のためにと空けられたそうだ。だからなのか、調度品は全て一流で固められている。本堂と俊介が使う秘書室もそれ相応の金が掛かっているようだ。スタイリッシュなデザイナーズ家具でまとめられていた。

 本堂は自分のデスクに荷物を置いて、聖の執務室に向かった。

 今日は朝から正義と一緒に外出しているため、聖と青葉がここに来るのは午後になるだろう。

 部屋に入ると、少し散らかった机の上にはいくつか資料がまとめられていた。あれから何時まで残っていたのだろうか。ここにいないということは家に帰ったのだろう。

 心配する青葉と、それをいなす聖が容易に想像できた。

 まとめられた資料はどれも済み印が押されている。本堂は積まれていた他の書類を見て、自分に出来そうなものを選別した。

 別にかわいそうだからとかではない。一応立場上は聖の補佐役だから、聖がいない間は業務を引き受けているだけのことだ。

 数十枚そこから紙を抜き取ったが、それでも聖がやらなければならない仕事は多かった。きっとこれのために今日も残業するのだろう。

 作業を進めながら、どうにかならないものかと考えている自分がいて、なんだか気分が悪くなる。

 聖がどうなろうが知ったことではない。補佐として最低限の仕事はするが、これは元々聖の仕事だ。自分には関係ない。

 心の中でそう説得させたが、手元の紙を見ていると先ほど頭をよぎった感情がまたチラついてどうしようもない気持ちになった。



 聖と青葉が出社したのは昼過ぎになってからだった。

 既に聖は手に資料を抱えていて、それを見ながら器用に青葉の話を聞いている。

「お疲れ様、はじめさん」

「ああ」

 よく見れば、聖の目の下にはクマができていた。目はとろんとしていて明らかに眠そうだ。やはり遅くまで残業していたのだろう。

 聖はまっすぐ執務室へ向かった。

「おい、青葉」

「なんだ」

「……なんでもねえ」

 言いかけたところで、本堂は一瞬、自分諌めた。青葉に聞こうとしていた台詞を、必死で喉の奥の押しとどめた。

 聖を少しは休ませてやれ、あいつは寝てないのか────そんなこと聞いて、一体どうするというのだ。自分には関係ないことだ。

「聖は昨日深夜に帰って来てな。あんまり寝てないんだ。本堂、少し手伝ってやってくれ」

 本堂の心の声を聞いたかのように、俊介が答えた。

「……知るかよ、あいつの仕事だろ」

 分かっている。だからこそ、反発してそう答えてしまった。

「お前一応聖の補佐なんだぞ」

「最低限はやってやる。けど、それ以外のことは執事兼秘書のお前の仕事だ。俺には関係ねえよ」

「当たり前だ。俺は俺のやるべきことをやる」

 お互いフンと鼻を鳴らして、それぞれのデスクに戻る。

 《《くそ》》真面目な青葉のいうことなんていちいち聞いてられないし、自分に頼むのは人選ミスだ。

 それから何度か聖の部屋に入ったが、聖は必要なことを聞く以外はずっとパソコンに向かっていた。

 眉間には皺が寄っているし、デスクに置かれたコーヒーはほとんど飲まないまま冷めていた。

 見ていると、半開きの目で画面を見つめていた瞳がこちらに気付いて顔を向けた。

「はじめさん?」

「いや……」

「ここから資料取って行ったのはじめさんでしょう? すごく助かったわ、ありがとう」

「お前がミスるとこっちも困るんでな」

「全体を把握するのに少し時間がかかるからそれまで苦労をかけるけど……無理はしないでね」

 本堂は思わずはあ? と言いそうになった。

 ────無理をするな? どの口が言うんだ。

 自分の心配をする前に部下の心配をするのは教育の賜物なのだろうか。ひねくれた考えをしている自分に、聖は眠そうな目で笑った。いつも自分に向けるあの目だ。

 聖はきっと信頼してくれているのだろう。自分の補佐役が寝首を掻こうとしているとも知らずに────。

 聖の笑顔を見ているとなんだか居心地が悪くて、本堂は足早に部屋を出た。

    
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