とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
集中しようと一階のコンビニへコーヒーを買いに行くと、聖がいつか話していた煎餅を偶然見つけた。
────そういえば、食いたいとか言ってたな。
便利なコンビニが足元にあるにも関わらずここに立ち寄れないのは、聖のことを誰もが知っていて人目を気にするからだろうか。
それともコンビニなんて行くもんじゃないという藤宮の教育方針なのか、それとも青葉がうるさいだけなのか。恐らく全てだ。
本堂は少し考えるとコーヒーのついでにそれをレジに持っていった。
煎餅が好きだと聞いた時、オヤジ臭いものが好きなんだなと思ったのを覚えている。
聖はまだ二十二歳だ。普通、女子はケーキやマカロンなどの甘いものを好むと思っていた。もっとも、お嬢様の聖はきっとそんな類のものは食べ慣れているからどうでもいいのかもしれないが。
コンビニを出たところで小銭をしまっていると、コーヒーを飲みながら入り口で話している社員達の話がふと耳に入ってきた。
「本当ずるいよなあ。俺らなんて勤続十年とかでもまだ平社員なのに跡取りっていうだけですぐに補佐させてもらえるんだもんな」
「俺らが毎日残業してる間も遊んでるんだろ。マジでお嬢様が羨ましいぜ」
「ああ~俺も金持ちに生まれたかった!」
────は?
その話は明らかに聖のことだった。そして、本堂の中にあった何かがブチんと音を立てて切れた。
ゲラゲラ笑うその社員達に、気付いたら持っていたビニール袋を投げつけていた。
買ったばかりのコーヒーが盛大にぶちまけられた。袋は男のスーツに直撃して、辺りにはコーヒー臭が漂う。
だが、頭に血が上っていてそんなことも考えられなかった。
コーヒーまみれになった社員は青い顔をして唖然と本堂を見つめた。
「ほ……本堂補佐……っ! あ、あの────」
「上司の悪口は聞こえねえように言うんだな」
静かに煮え滾っていた怒りを言葉にした。深い溜息を吐くと、袋を拾ってその場を後にした。
苛々しているせいか足のスピードが速くなる。音を立てて歩きながら、殴るようにエレベーターのボタンを押した。
なぜこんなに苛立っているのか、分からなかった。
どうしてこんなに怒りが湧くのか。聖の悪口を聞いたからだろうか。
だが、彼らが言っていたことはもっともだ。大学を卒業したばかりでいきなり代表取締役の補佐に就任なんて、昇進したいと思っている社員からしたら素直に納得できるわけがない。
でも、そうではない。
聖は決して、腰掛け役員のつもりで仕事をしているわけではない。望んでそうなったわけでもない。
休憩時間も寝る間も惜しんで会社のことを覚えようと必死だ。経験に対し、明らかに重すぎる仕事をやっている。
聖と出会って間もないが、聖がドラマで見るような金にモノを言わせたお嬢様じゃないことくらい、分かっていた。
学生時代は習い事と大学の往復で遊ぶ時間さえない。今だって多すぎる仕事量で遊ぶところかコーヒーさえ飲めていないのだ。
「何やってんだ俺は……」
それを知っているから怒るのか。
自分は藤宮が嫌いだ。だったら喜べばいい。なのにどうして怒りが湧くのだろう。
鼻息荒く廊下を足早に抜けて、乱暴に執務室のドアを開ける。驚いた聖が顔を上げて自分の方を見ていた。
「は、はじめさん? どうし……わっ! ちょっと、袋がビシャビシャじゃない!」
言われてハッと気が付いた。コーヒーをぶち撒けた袋は中身も外も茶色い液体まみれで、液が垂れて床にシミを作っていた。
慌てで片手でそれを受け止めたがもう無駄だった。
「ちょっと待って! ティッシュで拭くから────」
聖が慌ててティッシュの箱を持ってきて、床と袋と自分の手を拭く。
袋と手はなんとかなったが、床はシミになったのでクリーニングが必要だ。
「ビックリした。これ、コーヒーよね? 途中でこぼしたの?」
「あ、いや……」
まさか社員に投げつけたとは言えず、言葉に詰まる。
聖は袋の中を見つめて、自分に笑いかけた。
「これ、はじめさんが食べる用?」
「そんなワケあるか! こんなジジくさい煎餅なんか食わねえよ!」
「じゃあ、どうして買ってきたの?」
窺うように見つめられて、心臓が跳ねる。
どうとも答えられなくて、押し付けるように袋を渡した。
「下のコンビニに売ってっから、欲しかったら言え」
袋を渡した時の聖の嬉しそうな顔が、また胸を締め付けた。
────俺は、お前が憎い。だから、そのためにやってるだけだ。これは復讐だ。聖が可哀想だから、やっているわけじゃない。
また自分に言い聞かせたが、胸は傷んだままだった。
聖を失脚させることが目的で近付いた。それならどんな悪口も聞き流せばいいのに、それができない。
聖の期待を裏切って、散々傷つけて見捨ててやろうと、そう思っていたのに。それができなかった。
────そういえば、食いたいとか言ってたな。
便利なコンビニが足元にあるにも関わらずここに立ち寄れないのは、聖のことを誰もが知っていて人目を気にするからだろうか。
それともコンビニなんて行くもんじゃないという藤宮の教育方針なのか、それとも青葉がうるさいだけなのか。恐らく全てだ。
本堂は少し考えるとコーヒーのついでにそれをレジに持っていった。
煎餅が好きだと聞いた時、オヤジ臭いものが好きなんだなと思ったのを覚えている。
聖はまだ二十二歳だ。普通、女子はケーキやマカロンなどの甘いものを好むと思っていた。もっとも、お嬢様の聖はきっとそんな類のものは食べ慣れているからどうでもいいのかもしれないが。
コンビニを出たところで小銭をしまっていると、コーヒーを飲みながら入り口で話している社員達の話がふと耳に入ってきた。
「本当ずるいよなあ。俺らなんて勤続十年とかでもまだ平社員なのに跡取りっていうだけですぐに補佐させてもらえるんだもんな」
「俺らが毎日残業してる間も遊んでるんだろ。マジでお嬢様が羨ましいぜ」
「ああ~俺も金持ちに生まれたかった!」
────は?
その話は明らかに聖のことだった。そして、本堂の中にあった何かがブチんと音を立てて切れた。
ゲラゲラ笑うその社員達に、気付いたら持っていたビニール袋を投げつけていた。
買ったばかりのコーヒーが盛大にぶちまけられた。袋は男のスーツに直撃して、辺りにはコーヒー臭が漂う。
だが、頭に血が上っていてそんなことも考えられなかった。
コーヒーまみれになった社員は青い顔をして唖然と本堂を見つめた。
「ほ……本堂補佐……っ! あ、あの────」
「上司の悪口は聞こえねえように言うんだな」
静かに煮え滾っていた怒りを言葉にした。深い溜息を吐くと、袋を拾ってその場を後にした。
苛々しているせいか足のスピードが速くなる。音を立てて歩きながら、殴るようにエレベーターのボタンを押した。
なぜこんなに苛立っているのか、分からなかった。
どうしてこんなに怒りが湧くのか。聖の悪口を聞いたからだろうか。
だが、彼らが言っていたことはもっともだ。大学を卒業したばかりでいきなり代表取締役の補佐に就任なんて、昇進したいと思っている社員からしたら素直に納得できるわけがない。
でも、そうではない。
聖は決して、腰掛け役員のつもりで仕事をしているわけではない。望んでそうなったわけでもない。
休憩時間も寝る間も惜しんで会社のことを覚えようと必死だ。経験に対し、明らかに重すぎる仕事をやっている。
聖と出会って間もないが、聖がドラマで見るような金にモノを言わせたお嬢様じゃないことくらい、分かっていた。
学生時代は習い事と大学の往復で遊ぶ時間さえない。今だって多すぎる仕事量で遊ぶところかコーヒーさえ飲めていないのだ。
「何やってんだ俺は……」
それを知っているから怒るのか。
自分は藤宮が嫌いだ。だったら喜べばいい。なのにどうして怒りが湧くのだろう。
鼻息荒く廊下を足早に抜けて、乱暴に執務室のドアを開ける。驚いた聖が顔を上げて自分の方を見ていた。
「は、はじめさん? どうし……わっ! ちょっと、袋がビシャビシャじゃない!」
言われてハッと気が付いた。コーヒーをぶち撒けた袋は中身も外も茶色い液体まみれで、液が垂れて床にシミを作っていた。
慌てで片手でそれを受け止めたがもう無駄だった。
「ちょっと待って! ティッシュで拭くから────」
聖が慌ててティッシュの箱を持ってきて、床と袋と自分の手を拭く。
袋と手はなんとかなったが、床はシミになったのでクリーニングが必要だ。
「ビックリした。これ、コーヒーよね? 途中でこぼしたの?」
「あ、いや……」
まさか社員に投げつけたとは言えず、言葉に詰まる。
聖は袋の中を見つめて、自分に笑いかけた。
「これ、はじめさんが食べる用?」
「そんなワケあるか! こんなジジくさい煎餅なんか食わねえよ!」
「じゃあ、どうして買ってきたの?」
窺うように見つめられて、心臓が跳ねる。
どうとも答えられなくて、押し付けるように袋を渡した。
「下のコンビニに売ってっから、欲しかったら言え」
袋を渡した時の聖の嬉しそうな顔が、また胸を締め付けた。
────俺は、お前が憎い。だから、そのためにやってるだけだ。これは復讐だ。聖が可哀想だから、やっているわけじゃない。
また自分に言い聞かせたが、胸は傷んだままだった。
聖を失脚させることが目的で近付いた。それならどんな悪口も聞き流せばいいのに、それができない。
聖の期待を裏切って、散々傷つけて見捨ててやろうと、そう思っていたのに。それができなかった。