とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
 中間決算のため、本社内はいつもより少しバタついていた。
 
 俊介は資料を集めるためにあちこちフロアを移動していて、本堂は四六時中パソコンに張り付いていた。聖も提出されたデータに目を通すのに忙しかった。

 長いこと座っていたせいか、腰が痛い。少し休憩しようと聖は立ち上がった。

 俊介は外出中。せっかくだから自分でインスタントコーヒーを作ることにした。箱に詰められたスティックの山には、色々な品名が書かれていて、その中から選ぶのが密かな楽しみだった。

 どれにしようかと迷っていると、本堂がドアを開けて入ってきた。

「資料できたぞ」

「あ、ありがとう。はじめさんもコーヒー飲む?」

「飲む」

 本堂は短く答えると、執務室の大きな革張りのソファに身を沈めた。パソコン作業が続いて疲れているのだろう。眉間を指で押さえて揉んでいる。

 俊介が詰めてくれた箱の中から適当なものを選んでお湯を注いだ。

 こんな簡単にコーヒーが飲めるのなら、いちいち豆を挽いたりする必要もない。本当に便利な商品だ──なんて言いかけたが、本堂が大笑いするのでやめた。
 
 テーブルの上にコーヒーを置くと、本堂の隣に腰掛けた。本堂は黙ってマグカップを手に取った。

「決算月っていつも大体こんな感じなの?」

「まあな」

「そっか……こなしてれば慣れてくるかな」

「多少はな。無理すんなよ」

「はじめさんもね。目、疲れてない? 大丈夫?」

「いつものことだ」

「……そうだ! ちょっと待ってて」

 聖は給湯室に入ってあるものを探した。目的のものはすぐに見つかった。それを濡らし、電子レンジの中に放り込んだ。少しするとピーピーと電子音が鳴ってそれを取り出す。

 思わず、あちっと声を上げると本堂から「大丈夫かよ」と声をかけられた。

 聖はそれを雑巾持ちして、本堂の方へ持っていった。

「……なんだそりゃ」

「いいから上を向いて目を瞑ってよ」

 言われた通り、本堂は目を瞑って上を向いた。聖は瞼の上にそっとそれを乗せた。

「ああ、そういうことか」

 本堂は納得したのかニヤリと口元が笑う。瞼の上に置いたのは簡易の蒸し布巾だ。

「これ、私が勉強してた時に俊介がよくやってくれたの。気持ちいいでしょ?」

「……まあな」

「疲れてる時はこうすると目が休まるんだって」

 本堂は連日の作業で疲れているはずだ。面倒くさそうにしていても、いつも仕事はきっちりやってくれる。

 見やすいように工夫して資料を作っているし、粗暴な性格とは真反対に仕事は丁寧だ。だから聖は勝手に本堂のことを「人一倍気を遣う人」なのだと思っていた。

 布巾が冷めるのは意外に早かったようで、本堂は数分上を向いていたがすぐにそれをとって元の姿勢に戻った。

「もう一回する?」

「いや……いい。お前がやれよ」

「そうしようかな。私もちょっと目が痛いし……」

「ちょっと待ってろ」

 本堂は席を立つと給湯室に入って行った。すぐに電子レンジの音がした。本堂も同じことをしているのだろう。

 二、三分後、本堂は温めたそれを持ってソファに戻ってきた。

「ホラ、上向けよ」

「今日はサービス精神が旺盛ね」

「俺がやれば青葉に言い訳できるだろ?」

「さすが、よくご存知ね」

 上を向くと蒸らした布巾を被せられて目が暖かくなる。なんだか落ち着いた気分になった。
 
 自分で作りました、などと俊介に言ったら怒るに違いない。

「はじめさんといると規則破りばかりしちゃう」

「なんか問題あるか?」

「俊介が怒る」

「そりゃあ大問題だな」

「でも楽しいからいいのよ」

「こんなことがか?」

「だって一人じゃ出来ないからね」

 聖は上に立つものならば人を動かすのは当然だと、《《そういう》》教育を受けた。

 だから自分で何かするのは勉強したり習い事をする時くらいのもので、生活に必要なことは全て執事などの使用人の役目だった。

 コンビニすら行けないのは、そういう理由もある。全て正義の指導の賜物だった。
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