とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
 聖は騒がしいパーティー会場から出て、人が居なさそうな部屋を探した。そして一番近い場所にあった資料室に入った。

 そして椅子に座るでもなく、部屋の隅に行って地べたに腰を下ろした。窓から射し込む月の明かりが暗い部屋をぼんやりと照らしていた。

 ショックを受けている自分を叱責した。本堂がああ言ったのは仕方のないことだ。彼だって馬鹿じゃない。あそこにいたら、そうせざるを得ないことは分かっていたはずだ。だからそうしたに違いない。
 
 なのに────どうしても受け入れられなかった。

 あの仮面舞踏会のようなパーティー会場で、唯一仮面をつけていない本堂。自分に偽りの感情を向けないその存在は心を支えてくれる柱のようなものだった。

 どこに行っても逃れられない視線の中で、本堂は唯一その瞳に憎しみを宿していた。

 初めて見た時、随分驚いたのを覚えている。隠しているようで、わざと見せているようにも思えた。だが、その理由なんて自分にとってはどうでも良かった。

 この人ならきっと、自分を贔屓目で見たり、周りの権力にも屈しない。そう思える強い瞳をそばに置きたかったのだ。例えどんなに憎まれていても────。

 本堂が優しくするのは騙すためなのだろうか? 気遣うのはどうしてなのか?

 少なくとも、いつも自分の周りにいる人間とは違う。

 例え本堂が自分を憎んで、騙すためにそばにいるのだとしても、それでもそばに置きたいと思った。

 聖、と────そう呼んでくれたことが嬉しかったから。

 おべっかを使わない、こんな自分のことをからかう本堂は、一緒にいてとても楽しい存在だった。

 口が悪くて自分を「聖様」扱いしないところや、規則なんてちっとも気にしないところ。自分の好物を覚えて買ってきてくれたところも。自分を知ろうと疑いながらでも質問をしてくれるところ。
 
 本当に嬉しかったのだ。そんな人は今までいなかった。

 ────聖。

 頭の中で、そう呼ぶ声が響く。それは自分の名前を愛せた瞬間だった。

 それは大嫌いな藤宮のお人形の名前だったが、その人形は本堂が呼んでくれて、初めて人間になれた。

 こんな年下のお嬢様に、こんなふうに思われたところで迷惑に思うだろう。

 自分は身の程知らずではない。立場もわきまえている。だから本堂には言わないつもりだ。

 そんなことを本堂は望んでいない。そうでなくとも、この想いは無駄なのだ。

 気がつくと、知らず知らずのうちに頬を涙が伝っていた。泣いたのなんて、いつぶりだろうか。

 悲しいという感情が胸の内を支配して、聖は思わずその名前を呼んだ。

「はじめさん………」
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