とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
  聖がようやく挨拶回りから帰って来ると、秘書室に本堂の姿がなかった。

「俊介、はじめさんは?」

「いや、今日はここにいるはずだが……いないな。あいつどこに行ったんだ?」

 同じフロアにはいないし、書置きもなかった。

「もしかしたらコンビニに行ってるのかも」

「だな。そのうち帰ってくるだろう」

 本堂はもともと自由人だから、それほど騒ぎ立てる必要もない。そう思って聖は仕事に戻った。

 本堂が帰ってきたのはそれから二時間も後だった。

 廊下の扉が閉まる音がして、聖は本堂が帰ってきたのだと思った。

 やがて扉の向こうから俊介の咎める声が聞こえた。

「本堂、お前どこに行ってたんだ? 連絡もしないで」

「藤宮社長の付き添いで出てたんだ。急だったから連絡し忘れたんだよ」

「なんだ、それならいいんだが……せめて書き置きくらいしてくれ。聖も心配してたんだぞ」

 自分のことを話しているのが聞こえて、聖は声をかけようと秘書室の扉を開けた。二時間も帰ってこなかったから、さすがに心配していたところだ。

「はじめさん! 帰って来たの?」

 声をかけたところで、本堂の様子がどことなく違うことに気がついた。

 いつもより眉間にしわを寄せて、身体中に針を宿したように他人を寄せ付けない────そんな雰囲気を纏っていた。

 漠然と感じた不安からサボってた、と。いつものように茶化す言葉を期待した。

「藤宮社長の付き添いで外出していたんですよ、聖様」

 本堂が言ったとも言えないセリフに、聖は驚いた。横で聞いていた俊介は目が点になっていた。

 まるで嫌味でも言うような丁寧な口調だ。

 本堂の無礼は慣れてきたところだが、いきなり態度を改められて逆に心配になった。

「本堂? どうしたんだお前」

「別に、何でもねえよ」

「はじめさん……何か、あったの?」

 少し声を震わせながら尋ねた聖に、本堂は笑顔を作って答えた。

「いいえ、何も。聖様はお忙しいのですから俺の心配をなさっている場合ではないのでは?」

 もう一度、とどめを刺すように。

 聖は言葉を失った。本堂の態度に混乱して、何を言えばいいかもわからなかった。

 呆然としたまま、落ち着こうと自分の執務室へ戻ったが、冷静になどなれるわけもない。聖が出て行った後、隣の部屋から俊介が本堂に詰め寄る声が聞こえた。

「おい、どうしたんだ? 頭のネジでも飛んだのか」

「なんだよ。態度を正せって言ったのはお前だろ」

「……それはそうだが」

「俺の態度になんか問題でもあんのか? ねえだろ、この話は終わりだ」

 突き放すように本堂がそう言って、俊介はそれ以降何も言わなかった。
 
 聖は立ち聞きしたことを後悔した。悪い冗談だと思ったが、どうやらそうではないらしい。

 混乱した頭のままデスクに着いた。本堂の言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。

 どうして本堂はいきなりあんなことを言ったのだろう。なぜ、あんな態度をとったのだろう。思いつく限り色々な理由を考えた。

 クリスマスのことが気に食わなかったのかもしれない。こんなお嬢様の上司が嫌になったのかもしれない。

 だが、これだと思う理由は見つからなかった。

 ただ、ショックだった。特別なことは言われていないが自分にとっては一大事だ。

 本堂にだけはそんなこと言って欲しくなかった。本堂だけが自分を藤宮扱いしなかったから。

 それにどんなに救われていたか、本人はきっとわかっていないだろう。
 
「聖」と、自分のことを呼び捨てにしてくれることが、どんなに幸福なことだったか。

 どこかで期待していたのかもしれない。本気の感情をぶつけてくれる本堂なら、自分のことを愛してくれるのではないか、と。

 だが、それはお門違いだった。憎んでいる相手を愛するはずがない。

 聖はまた泣きそうになったが、必死で涙を堪えた。泣いてはいけないのだ。「藤宮聖」なのだから。



 それから何日経っても本堂の態度は変わらなかった。
 
 遠ざけるように言葉には棘が込められていて、話しかけるのが億劫になるほど本堂は自分を拒絶しているようだった。

 憎しみが宿っていること。それは前から知っていた。ただ、その中にあった優しい光が消えたように思えた。

 聖────と。そう呼んでくれる本堂は、もう戻ってこないような気がしてならなかった。
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