とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
第13話 自分のために
後悔は消えることはなかった。それから聖の態度が一変したからだ。
聖は最近の本堂と同調するように振る舞った。本堂を「部下」扱いし、名前で呼ぶこともなくなった。
本堂はそんな聖を見て後悔していたが、どう謝ればいいかもわからなかった。
正義の言葉に激情して我を忘れていた。いや、それこそが自分自身だったが、ここしばらく自分が感じていた気持ちすらも忘れてしまったのだ。
聖は違うかもしれない。聖だったら────。そんな思いが音を立てて崩れていった。そしてようやく、聖の言葉で目が覚めた。
藤宮を潰さなきゃならない。藤宮だけは許せない────。そんな気持ちが言葉に出て、ついに聖の心を壊してしまった。
わずかに保っていた聖の心を、傷付けたくないと思っていた自分が壊してしまうなんて思わなかった。
いつも自分に向けてくれていた屈託のない笑顔は、まるで死んだように沈んでいる。能面のような笑顔を貼り付けて、もうどこにも彼女が心を許せる場所がないと────そう物語っていた。
仕事に支障があるわけではない。執務室と秘書室は隣り合わせだったが、用があっても聖は淡々と要件を伝えるだけでそれ以外に会話はなかった。
たが、以前のように気安い雰囲気は一変して、自分達の間には見えない壁のようなものができていた。
やり取りを目の当たりにしていた青葉もとばっちりのようなものを受けていて、青葉ですら以前のように名前で呼ばれなくなった。
それはもはや幼馴染というより、ただの上司と部下だ。
青葉もなんとかしようとしている様子だったが、聖が単に怒っているわけではないから簡単に口に出すことが出来なかったのだろう。
本堂は今日も仕事のために何度か執務室に出入りしたが、聖は仕事をするだけのロボットにでもなったみたいで、手短に要件だけを伝えると執務室から出されてしまった。
本堂が秘書室に戻ってくると、顔を上げた青葉と目が合った。二人で小さなため息を漏らし、この状況を憂いた。
本堂はまるで家から追い出された子供のような気持ちになった。
「……聖は」
そう聞かれ、本堂は黙って首を横に振った。また溜息が漏れる。
こんなやり取りをもう何十回も続けていた。
壁一枚隔てているのになんだか息苦しく感じるのは、この重苦しい雰囲気のせいなのか。聖が隣にいると思うからなのだろうか。
どちらにしろ自分のせいだ。
「……本堂、少しいいか?」
青葉が顎でしゃくって、外に出るぞと合図した。本堂は黙ってそれに従った。
本社ビルから出て青葉が向かったのは会社のすぐ近くにある公園だ。コートも着ずに外に出たから、随分寒く感じる。息を吐くと白くなった。
青葉は自動販売機で二人分のコーヒーを買って、一つを本堂に手渡した。そのすぐ横に置かれたベンチに二人で座る。奇妙な沈黙が流れた。
あの青葉とベンチに並んで腰掛けているなんて、なんだか妙だ。
「お前も虫の居所が悪かったんだろうが……」
青葉がそう話し始めて、言われることは大体想像がついた。
自分の態度のせいで聖があんなふうになっているのだから、当然説教されるものだと思っていた。
やがて大きな溜息が聞こえた。
「俺は、最初はお前のことが嫌いだった」
思っていたのと違うことを話し始めて、本堂は顔を上げて確かめるように青葉を見つめた。
青葉はコーヒーを飲みながら、どこか遠い目をしていた。
「不真面目で、いかにも適当で、絶対にコイツとは馬が合わないと思ってた」
「……お互いな」
二人ともふっと笑みを浮かべた。
「だから聖がお前を本採用した時は疑ったさ。こんな奴に務まるわけないって思ってた。しかもお前、俺に喧嘩売るような態度だっただろう。絶対にお前は何かしでかすと思ったんだ。まあ、その通りになったんだが……」
そう思われていることは知っていた。そう思うように仕向けていたし、半分からかって遊んでいるつもりだった。自分でもまさかこんなことになるとは思わなかったが。
「それでもな。俺は聖がお前を必要としてるなら認めようと思ってたんだ。お前といる時、聖が楽しそうで……家のことから解放されてるように見えた。お前も聖のことを少しは理解してくれてると思ってた。なのに……どうしてあんなこと言ったんだ?」
「……復讐だ」
なぜ、今青葉にそんなことを言う気になったかは自分でもわからない。
藤宮に対して復讐しようと考えているのに、ターゲットに最も近い人物である青葉に言うのはどう考えたって間違いだ。バラされればタダでは済まない。
ただ、青葉が素直に話してくれたのを聞いて、不思議と喋ってもいい、そう思えた。
それに聖のことをどうしたらいいか、自分でもわからなかった。
「復讐……?」
青葉は眉間にしわを寄せて聞き返した。
本堂はゆっくりと、全てを話した。
過去にあったこと、藤宮グループに入社した理由、家庭教師に応募した訳、聖に対する考えを改めたこと、そして、先日あったことを────。
青葉は信じられないと言って頭を抱え、しばらく言葉を発さなかった。
当然だ。聖の側近がそんな理由で藤宮家に出入りしていればショックを受けるのも無理はない。
「……理由はわかった」
そしてようやくやっと、絞り出すようにそう答えた。
「俺は親も健在だし、お前の気持ちを完全には理解はできないが……それが辛かったことは分かる。でも……」
「……本当に復讐するつもりだった。けど、聖があんなに一所懸命なのを見てたら、そうすることを躊躇いたくなった」
「俺が言った意味がわかったか?」
────聖のそばにいたいと思う理由。青葉は小さく呟いた。
「ああ……」
今なら痛いほど理解できる。復讐さえなければ聖は理想の上司だ。歳下であっても尊敬すべき女性だ。青葉が仕える理由も分かる。
だが、気が付くのが遅すぎた。
「……謝って、許してくれるとは思えなくてな」
「謝ってどうにかなるなら、聖は小さい頃から苦しんでない」
一番痛いところを突かれて本堂は苦々しくだな、と答えた。
何も信じられなくなった聖に、今更ごめんで済むとは思っていない。だが、だからといって今のままでいいとも思わない。
「お前は、聖が許せないのか?」
「いや……」
本当は聖ではなかった。藤宮の跡取りだからターゲットにしただけで、本来ならば対象は藤宮正義になる予定だった。
聖が許せないなんて、感じたことはない。藤宮だから憎んでいただけだ。
だが、それこそが聖が最も嫌がることだった。
「本人から聞いた訳じゃないが……お前は、聖を唯一藤宮扱いしないから、だから……お前といて楽しかったんだと思う」
「……だろうな」
「それなのにそのお前があんなこと言ったから、ショックだったんだろうな」
「分かってる。俺が、一番あいつを……藤宮扱いしてたんだ」
「聖がな、どうして本堂を家庭教師に選んだんだって聞いたら、お前のことを『本気の感情をぶつけてくれる人だから』って言ってたんだよ。どういうことか聞いたら、俊介は怒るからって、教えてくれなかったけどな。……そうか。あれはきっと、お前が今言った気持ちのことだったんだろうな」
「お前に言ったら怒り狂うだろ」
「……そうかもな。けど俺もそれがまさか、怒りの方だとは思わなかった。でも、それでも聖には、お前が必要だったんだよ。お前しか本音を見せる奴がいなかったから……」
自分も同じセリフを言われた。最初はその意味が分からなかった。
聖が唯一だと言ったのは、自分が藤宮扱いしないから、そういう意味だと思っていた。
だが、そうではなかった。聖は自分を見てすぐに見抜いたのだろう。
あの人を見抜くのが得意なお嬢様は、自分が怒りに震えていたことを分かっていた。それでも自分をそばに置いて、この世界で生き抜こうとしたのだ。
そうでもしなければ仮面だらけの世界に耐えきれなかったから。
「もう一度、話してみる。それで駄目なら────」
駄目だったら、そんなことは考えたくなかった。あの調子で聖が話を聞いてくれるかはわからないが、言ってみなければわからない。
「聖も頑なになってるだけかもしれない。話してみて駄目だったらまた考えたらいいさ」
「ああ……」
青葉に慰められているなんて、少し前は考えられないことだったが、本堂は以前よりも気持ちが軽くなったような気がした。
ずっと一人で抱えていたことを誰かに話せて、荷物が軽くなったような、そんな気持ちだった。
すっかり冷めた缶コーヒーに口をつけながら、本堂は上を見上げた。
高層ビルの上の方の、聖がいそうな辺りを見上げて、見えもしないその姿を頭に浮かべていた。
聖は最近の本堂と同調するように振る舞った。本堂を「部下」扱いし、名前で呼ぶこともなくなった。
本堂はそんな聖を見て後悔していたが、どう謝ればいいかもわからなかった。
正義の言葉に激情して我を忘れていた。いや、それこそが自分自身だったが、ここしばらく自分が感じていた気持ちすらも忘れてしまったのだ。
聖は違うかもしれない。聖だったら────。そんな思いが音を立てて崩れていった。そしてようやく、聖の言葉で目が覚めた。
藤宮を潰さなきゃならない。藤宮だけは許せない────。そんな気持ちが言葉に出て、ついに聖の心を壊してしまった。
わずかに保っていた聖の心を、傷付けたくないと思っていた自分が壊してしまうなんて思わなかった。
いつも自分に向けてくれていた屈託のない笑顔は、まるで死んだように沈んでいる。能面のような笑顔を貼り付けて、もうどこにも彼女が心を許せる場所がないと────そう物語っていた。
仕事に支障があるわけではない。執務室と秘書室は隣り合わせだったが、用があっても聖は淡々と要件を伝えるだけでそれ以外に会話はなかった。
たが、以前のように気安い雰囲気は一変して、自分達の間には見えない壁のようなものができていた。
やり取りを目の当たりにしていた青葉もとばっちりのようなものを受けていて、青葉ですら以前のように名前で呼ばれなくなった。
それはもはや幼馴染というより、ただの上司と部下だ。
青葉もなんとかしようとしている様子だったが、聖が単に怒っているわけではないから簡単に口に出すことが出来なかったのだろう。
本堂は今日も仕事のために何度か執務室に出入りしたが、聖は仕事をするだけのロボットにでもなったみたいで、手短に要件だけを伝えると執務室から出されてしまった。
本堂が秘書室に戻ってくると、顔を上げた青葉と目が合った。二人で小さなため息を漏らし、この状況を憂いた。
本堂はまるで家から追い出された子供のような気持ちになった。
「……聖は」
そう聞かれ、本堂は黙って首を横に振った。また溜息が漏れる。
こんなやり取りをもう何十回も続けていた。
壁一枚隔てているのになんだか息苦しく感じるのは、この重苦しい雰囲気のせいなのか。聖が隣にいると思うからなのだろうか。
どちらにしろ自分のせいだ。
「……本堂、少しいいか?」
青葉が顎でしゃくって、外に出るぞと合図した。本堂は黙ってそれに従った。
本社ビルから出て青葉が向かったのは会社のすぐ近くにある公園だ。コートも着ずに外に出たから、随分寒く感じる。息を吐くと白くなった。
青葉は自動販売機で二人分のコーヒーを買って、一つを本堂に手渡した。そのすぐ横に置かれたベンチに二人で座る。奇妙な沈黙が流れた。
あの青葉とベンチに並んで腰掛けているなんて、なんだか妙だ。
「お前も虫の居所が悪かったんだろうが……」
青葉がそう話し始めて、言われることは大体想像がついた。
自分の態度のせいで聖があんなふうになっているのだから、当然説教されるものだと思っていた。
やがて大きな溜息が聞こえた。
「俺は、最初はお前のことが嫌いだった」
思っていたのと違うことを話し始めて、本堂は顔を上げて確かめるように青葉を見つめた。
青葉はコーヒーを飲みながら、どこか遠い目をしていた。
「不真面目で、いかにも適当で、絶対にコイツとは馬が合わないと思ってた」
「……お互いな」
二人ともふっと笑みを浮かべた。
「だから聖がお前を本採用した時は疑ったさ。こんな奴に務まるわけないって思ってた。しかもお前、俺に喧嘩売るような態度だっただろう。絶対にお前は何かしでかすと思ったんだ。まあ、その通りになったんだが……」
そう思われていることは知っていた。そう思うように仕向けていたし、半分からかって遊んでいるつもりだった。自分でもまさかこんなことになるとは思わなかったが。
「それでもな。俺は聖がお前を必要としてるなら認めようと思ってたんだ。お前といる時、聖が楽しそうで……家のことから解放されてるように見えた。お前も聖のことを少しは理解してくれてると思ってた。なのに……どうしてあんなこと言ったんだ?」
「……復讐だ」
なぜ、今青葉にそんなことを言う気になったかは自分でもわからない。
藤宮に対して復讐しようと考えているのに、ターゲットに最も近い人物である青葉に言うのはどう考えたって間違いだ。バラされればタダでは済まない。
ただ、青葉が素直に話してくれたのを聞いて、不思議と喋ってもいい、そう思えた。
それに聖のことをどうしたらいいか、自分でもわからなかった。
「復讐……?」
青葉は眉間にしわを寄せて聞き返した。
本堂はゆっくりと、全てを話した。
過去にあったこと、藤宮グループに入社した理由、家庭教師に応募した訳、聖に対する考えを改めたこと、そして、先日あったことを────。
青葉は信じられないと言って頭を抱え、しばらく言葉を発さなかった。
当然だ。聖の側近がそんな理由で藤宮家に出入りしていればショックを受けるのも無理はない。
「……理由はわかった」
そしてようやくやっと、絞り出すようにそう答えた。
「俺は親も健在だし、お前の気持ちを完全には理解はできないが……それが辛かったことは分かる。でも……」
「……本当に復讐するつもりだった。けど、聖があんなに一所懸命なのを見てたら、そうすることを躊躇いたくなった」
「俺が言った意味がわかったか?」
────聖のそばにいたいと思う理由。青葉は小さく呟いた。
「ああ……」
今なら痛いほど理解できる。復讐さえなければ聖は理想の上司だ。歳下であっても尊敬すべき女性だ。青葉が仕える理由も分かる。
だが、気が付くのが遅すぎた。
「……謝って、許してくれるとは思えなくてな」
「謝ってどうにかなるなら、聖は小さい頃から苦しんでない」
一番痛いところを突かれて本堂は苦々しくだな、と答えた。
何も信じられなくなった聖に、今更ごめんで済むとは思っていない。だが、だからといって今のままでいいとも思わない。
「お前は、聖が許せないのか?」
「いや……」
本当は聖ではなかった。藤宮の跡取りだからターゲットにしただけで、本来ならば対象は藤宮正義になる予定だった。
聖が許せないなんて、感じたことはない。藤宮だから憎んでいただけだ。
だが、それこそが聖が最も嫌がることだった。
「本人から聞いた訳じゃないが……お前は、聖を唯一藤宮扱いしないから、だから……お前といて楽しかったんだと思う」
「……だろうな」
「それなのにそのお前があんなこと言ったから、ショックだったんだろうな」
「分かってる。俺が、一番あいつを……藤宮扱いしてたんだ」
「聖がな、どうして本堂を家庭教師に選んだんだって聞いたら、お前のことを『本気の感情をぶつけてくれる人だから』って言ってたんだよ。どういうことか聞いたら、俊介は怒るからって、教えてくれなかったけどな。……そうか。あれはきっと、お前が今言った気持ちのことだったんだろうな」
「お前に言ったら怒り狂うだろ」
「……そうかもな。けど俺もそれがまさか、怒りの方だとは思わなかった。でも、それでも聖には、お前が必要だったんだよ。お前しか本音を見せる奴がいなかったから……」
自分も同じセリフを言われた。最初はその意味が分からなかった。
聖が唯一だと言ったのは、自分が藤宮扱いしないから、そういう意味だと思っていた。
だが、そうではなかった。聖は自分を見てすぐに見抜いたのだろう。
あの人を見抜くのが得意なお嬢様は、自分が怒りに震えていたことを分かっていた。それでも自分をそばに置いて、この世界で生き抜こうとしたのだ。
そうでもしなければ仮面だらけの世界に耐えきれなかったから。
「もう一度、話してみる。それで駄目なら────」
駄目だったら、そんなことは考えたくなかった。あの調子で聖が話を聞いてくれるかはわからないが、言ってみなければわからない。
「聖も頑なになってるだけかもしれない。話してみて駄目だったらまた考えたらいいさ」
「ああ……」
青葉に慰められているなんて、少し前は考えられないことだったが、本堂は以前よりも気持ちが軽くなったような気がした。
ずっと一人で抱えていたことを誰かに話せて、荷物が軽くなったような、そんな気持ちだった。
すっかり冷めた缶コーヒーに口をつけながら、本堂は上を見上げた。
高層ビルの上の方の、聖がいそうな辺りを見上げて、見えもしないその姿を頭に浮かべていた。