とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
 面倒な用事を終わらせ、慌ただしく帰宅した。今日はようやくあの家庭教師に会える。

 だが、俊介は違うようだ。家庭教師が気になっていたのだろう。からかうような口調で聖に尋ねた。

「新しい家庭教師もまた解雇するのか?」

「まだ授業が始まってもないのにそんなこと言わないで」

「どうせ一週間も続かない。いつもそうだろう」

「それが、今度のは面白そうな人なの。いつもみたいな頭でっかちじゃなくて……ああ、でもガッカリするのは嫌だから期待しないでおくね」

「どうせいつもと同じだ。お前が飽きて、成績が悪いふりするんだろう」

「さすが俊介。よく分かってるじゃない」

「褒めてない。ま、俺はもたない方に賭けるな」

「今度こそは当たりだといいんだけど」

「変なやつだったらすぐに呼べよ」

「大丈夫よ。うちの社員だもの。クビ覚悟で私を襲ったりしないと思うわ」

「そうじゃない。お前の────とにかく、無理はするなよ」

「ありがと。ほどほどにするね」

 聖は、本堂が来るのを今か今かと待ちわびた。

 ようやくその時間。本日五回目のノックの音がして、やや早足気味に扉へ急ぐ。宮松に違いない。少しばかり迅る心臓の音が喉を圧迫した。

「どうぞ」

 聖が答えると、ドアが開いた。そこには宮松、そして────。

「どうも、本堂です」

 そう挨拶した男性──本堂一を見て、聖は小さく「えっ」と声を上げた。そこにいたのは、履歴書の写真と違う男だった。  

 履歴書の男は真面目そうな顔付きの好青年だったが、目の前にいる男は頭の半分をかき上げたような髪型でムースの香りがした。おしゃれな髪型に違いないが、見慣れていないせいかいささか奇抜に映る。すらりとした細い体にスーツ姿はよく似合っているが、目つきが鋭く、ややつり目がちだ。

 なんにしろ、この男は履歴書の男と違う。

 聖は頭に疑問符を浮かべた。まさか自分が履歴書を見間違えたのだろうか。だが、そんなはずはない。本堂一の履歴書は何度も確認したのだから。

 静かに動揺する聖とは反対に、本堂は真っ直ぐに聖を見つめていた。

「聖様?」

 妙に思った宮松が声を掛けた。

「え、ああ……初めまして。藤宮聖です。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 本堂は簡潔に自己紹介をした。ハッキリとした涼やかな声だ。

「御用があればベルでお呼び下さい」

 宮松が下がると部屋に妙な空気が漂った。

 聖はいまだに混乱していた。どうやらこの男は本物の本堂一らしい。だがなぜ、履歴書の写真が違ったのだろう。

「……あなたは本当に、本堂……一さん?」

「そうですが」

「履歴書の写真と違うのはなぜですか?」

「写真を撮る時間がなかったから隣席の男のを借りました」

 本堂は特に悪びれもなく答えた。愛想のへったくれも、礼儀のかけらもない返事だった。

 彼は営業で海外に飛び回っていると聞いた。だから写真を撮る時間などなかったのだろう。

 だとしても、重要な写真を同僚の男に借りるだろうか。それとも、写真は選考には関係ないと思っていたのだろうか。それは事実だが────。

 聖は驚いたが、怒りはなかった。それよりも素直な本堂に感心していた。

「……型破りなのは承知でしたけど、驚きました」

「では、始めましょうか」

 本堂は特に雑談を交わすこともなく、勉強の準備が整った聖の机を見るなりそちらに向かった。

 これも、聖には意外なことだった。正義のお眼鏡にかなった家庭教師は大概ゴマスリ名人で聖に対してもそれは同じだ。勉強よりも、聖に気に入られる方に重きをおく人間が多かった。

 その点、本堂はゴマスリどころか愛想一つ振りまかない。彼は確か営業担当だと聞いているが、仕事中もこうなのだろうか。

 聖個人としては大変に好ましいし、清々しいほど自分に正直な性格をしているが、少し心配になった。

 本堂は聖が用意した教本をペラペラとめくった。大学生が習う内容は大人の本堂には退屈だろうか。

 だが、聖が通う私立大学は伊達に正義が選んでいない。家柄、財力、そして実力を伴ったものだけが入学できるエスカレーター式の金持ち学校だ。だから、決して簡単な内容ではないはずだ。

 本堂はめくっていた本を閉じ、聖に視線を向けた。

「本当にこれを勉強したいんですか」

「……どういうことですか?」

「随分綺麗な教科書だと思ったので」

「何が言いたいのか、ハッキリ言ってください」

「本当は、勉強なんてする気がないのでは? 俺を呼んだの口実で、もっと教わりたいことがあったんでしょう」

 本堂の目つきがいささか鋭くなった。聖は驚いて言葉を失った。

 頭の中で少し考え、聖も同じように見つめ返した。

「その通りです。私は勉強する気はありません。ただ、やる気がないわけではありません。本堂さんはなぜそう思ったのですか?」

「綺麗すぎる教科書は勉強していないか、内容を既に理解しているかのどちらかです。お嬢様の成績は伺っていますが、家庭教師を呼ぶような成績ではない。つまり──」

「クイズ大会はやめにしましょう」

 聖はふう、と息を吐いた。

 どうやら本堂は思っていたよりも賢い。それに鋭い男のようだ。腹の底は見えないが、そういう姿勢は気に入った。
 
 本堂ならば、自分が望むことを教えてくれるかもしれない。

「その件に関しては事情があるんです。うちもいろいろ厳しいから。ただ、来ていただいた以上はきちんと勉強するつもりです」

「うちの社長は完璧主義者ですから、お嬢様に求めることも多いでしょう」

 思えば、ここに来てから本堂の言葉には驚かされてばかりだ。

 今まで、聖の周りにいる人間──とりわけ、社員が正義のことを口にするのは、褒める時だけだった。自社の社長なのだから悪口なんて言えなくて当然だが、聖はそれがよいしょされているようで気に食わなかった。

 正義が完璧主義者であることは社員も知っているだろうが、今の言い方だとマイナスイメージに聞こえなくもない。本堂は当たり障りなく、とかオブラートに包むことを知らないのだろうか。それとも、あえてそう言っているのだろうか。

「……あなた、怖いもの知らずなの?」

「こんなところで取り繕っても意味はないでしょう。俺はいつもこうです」

「そんな態度をしていて上司に睨まれない?」

「有り難いことにうちの会社は実力主義ですので、仕事さえ取ってくれば文句は言われません」

 その時、仏頂面だった本堂がようやく笑った。

 理解できない、今まで会ったことのない人種だ。聖はおかしくておもわず笑ってしまった。本堂の言葉は嫌味とも取れるが、不快には感じなかった。

「……ええ、そうですね」

「さあ、それでお嬢様は何を教えてほしいんですか?」

「じゃあ、会社のことを教えてくれますか? あなたの仕事のことも含めて」

 本堂一は興味深い人物だった。静かで冷静な瞳の奥に、何か得体の知れないものを感じる。それは今までの家庭教師には感じたことのないものだった。

 聖はいっぺんにこの男──本堂一を気に入り、家庭教師として正式に雇用することを決めた。
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