とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
 聖はまだ眠たい頭を起こし、あくびをかみ殺しながら会社に行く用意を始めた。

 いつもなら俊介が朝の挨拶に来るのだが、今日は別の使用人がやってきて、俊介の体調が悪いことを伝えた。そのため、今日は俊介以外の運転手が送迎をするという。

 珍しいこともあったものだ、と聖は驚いた。昨日は自分の帰りが遅かったから、俊介も気を使って起きていたのかもしれない。

 昨日は夜遅くまで白鳥に連れ回されて本当に疲れた。

 ホテルに連れて行かれて何をされるのかと思ってみれば、自分が所有しているという珍しい年代物のワインを見せられただけだった。レストランで延々と酒の話をされて、至極退屈極まりない時間だった。

 しかし逆に言えば、何もされなくてよかったのかもしれない。

 それも今だけの話だが────。

 白鳥と話せば話すほど本堂に対する罪悪感が募る。会社でどんな言い訳をしようかとそればかり考えた。

 会社に着くと、秘書室に本堂の姿はなくて聖は少しがっかりした。

 その代わり俊介が気分悪そうにデスクで項垂れていた。

「おはよう、俊介。……顔、酷いけど大丈夫?」

「ああ……ちょっと飲みすぎてな」

「珍しいね……仮眠室で横になったら?」

「いや、いい……」

「はじめさんは?」

「ああ、そういえば、まだ来てないな」

「そっか……」

「聖……? お前……」

「え?」

「いや……なんでもない」

 まだ時間はある。待っていればそのうち来るだろう。

 だが、本堂に会ってどう言おうか、まだ思いつかなかった。言い訳するのか、謝るのか。

 婚約者と出かけたのは事実だが、何も悪いことはしていない。やましいことはカケラもない。

 それでも、好意を寄せる男の前で誘われて、平常心ではいられなかった。

 思えば、婚約者のことは本堂にはまるで関係がないことだ。

 白鳥が上司になるなら本堂にも関係あることだが、それを言い訳してどうするのだろう。本堂は自分のことなど好きでもなんでもないのだ。それどころか嫌われている。

 だが、この間本堂は必死に自分を説得しようとしてくれた。嫌いな人間にあんなことをするだろうか? だが、本堂の目はまだ自分を憎んだままだ。

 聖は頭を振った。余計な期待はしない方がいい。本堂とはビジネスの関係だ。それが嘘でも本当でも、近くにいてくれるならどうだっていいことだ。

 自分のデスクに荷物を置きに行くと、聖はいつもと違った点に気が付いた。デスクの上に置かれた一枚の封筒は、昨日はなかったものだ。

「何、これ……?」

 何となく妙に思い、すぐにそれの封を開けた。

 中に入っていた紙は一枚だけだ。その紙は手に持ってすぐ、はらりとデスクの上に落ちた。

「どうして……」

 紙に書かれていたのは本堂が退職する旨だった。それは、本堂一からの辞表だった。

 我にかえると、聖は執務室を飛び出して慌てて俊介に叫んだ。

「俊介!! はじめさんを探して……っ!!」

「は!? え、何言って────」

「はじめさん……っ」

 本堂はここにはいない。なら、もうビルの外に出ているかもしれない。

 聖は廊下に出て何度もエレベーターのボタンを押した。すぐに一階のエントランスに下りて本堂を探したが、彼の姿はどこにもない。

 そのまま外に出て、また周囲を見回す。だが、やはり同じだった。

 突然のことで泣きそうになった。

 本堂はなぜ突然、辞表を出したのだろう。

 自分のことを憎んでいたはずだ。もうその憎しみをぶつけなくてもよくなったのだろうか。それとも約束したのにまたお人形に戻ろうとしている自分が嫌になったのか。

「行かないで……はじめさん……」

 聖の心に残ったのは絶望だけだった。

 本堂は自分のとって最後の光だった。本堂がいればここでも生きていけると思っていた。たとえ愛されなくても、憎まれていても、そばにいてくれるならなんでも良かった。

 仮面だらけのこの世界では彼のような存在が必要だった。

 まっすぐに自分を見つめてくれる彼が。優しい目で笑う彼が。ぶっきらぼうでも自分を気遣ってくれる彼が────。

「好きなの……はじめさん………」

 ────お願いだから、行かないで。

 聖はしばらくそこで立ちすくんだが、本堂が戻ってくることはなかった。
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