とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
 本堂は朝早く、誰もいない会社に来た。

 恐らく一番乗りだろう。警備員に早いですね、と声を掛けられた。

 いつものようにエレベーターに乗り、自分が仕事する秘書室の前まで来たが、通り過ぎて聖の執務室の扉を開けた。

 ブラインドの隙間から朝日がわずかに漏れ出ていた。薄暗い部屋の中には当然、聖はいない。

 ここでしたやりとりを思い出しながら、本堂は鞄から取り出した白い封筒を静かに彼女のデスクに置いた。

 もう、ここに来ることもないだろう。

 静かに目を瞑った。瞼の裏に浮かぶのは、ここで仕事している聖の姿だ。

 いつも一所懸命で、歳下ということを忘れるぐらい自分よりも仕事をしていた。足りない部分があればそれを補おうと我武者羅に努力し、疲れていてもそれをおくびにも出さなかった。

 最初こそとっつきにくかったが、部下に愛されるいい上司になった。相手を思いやれるのは聖の長所だ。

 だが、最初は聖のことが嫌いだった。どうしようもなく憎くて、復讐の対象としか考えられなかった。

 なのにいつの間にか、聖と話しているとそんな気持ちが段々と薄れていった。
 
 いけないことだった。だから何度もそれを覆そうとして、聖を傷付けた。酷い言い方をして、聖を苦しめた。

 けれどどうしようもないほど、聖と一緒にいると楽しかった。

 金持ちなのに庶民的なギャップがあるからだろうか。いや、きっとそんなことではない。

 自分を振り回すのはいつも、その表情だ。仕事の判断はいつも冷静で、パッと見た感じはクールな印象なのに、自分の前ではびっくりするくらいいつも笑顔で。

 砕けた話し方をするのは、自分に心を開いていたからなのか。嬉しそうな顔も、はにかんだ表情も────見せるのは自分の前だけだと思っていた。

 聖のデスクを指でなぞる。

 ここで働けたことは、きっと幸せなことだ。たとえ彼女が憎むべき相手だとしても────。

 はじめさん────と。そこに座る聖が呼んでくれた。
  
 目を開けるとその幻は簡単に消えた。乾いた笑い声が口から漏れた。

 復讐するためにここに来たのに、あの時の自分は一体どこへいってしまったのだろう。今の自分を見たら、過去の自分は怒るかもしれない。

 藤宮が憎くて、自分の手で奪ってやろうと、そう思っていた。聖を傷つけてどん底に落とすことが目的だったのに、気が付いたら傷付いているのは自分の方だ。

 聖を傷つければ満足するはずだった。なのに何度も心を痛めていたのは────。

 本堂は身体の向きを変えて、懐かしい部屋をあとにした。もう二度と来ることはないだろう。

 ここに来た聖がどんな顔をするか容易に想像できた。きっと、彼女は悲しんで自分を探すだろう。それも分かっていた。

 ここを出ていくのは白鳥の命令を聞けないからではない。ただ、聖を────白鳥の隣にいる彼女を、見ているのが辛かったのだ。

 こんなことにも気が付けなかった。気付こうとしなかった。

 自分はきっと、気付かない間に聖を好きになっていた。

 傷付きながら大事なものを守ろうとするひたむきさや、自分には見せてくれた優しい笑顔。自分よりもずっと強い彼女を────。

「聖………」

 どうして自分は聖を愛さなかったのだろう。彼女が遠くへ行く前に。

 人形などではない。ありのままの聖が好きだった。
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