とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
第15話 小さな勇気

 秘書室はいつになく静かだった。

 デスクに着いた俊介は、なんとなく広く感じる部屋に何度もため息を漏らしながらキーボードを叩いた。
 
 もともと二人きりの部屋が、一人になったことでこんなにも寂しく感じられるなんて。

 本堂が辞表を提出してから一週間が経った。あれから本堂は一度もここに来ていない。連絡しても電話には出ないし、自宅にもいなかった。本堂は誰にも相談することなく会社を去った。

 落ち込んでいるのは俊介だけではなかった。

 隣の部屋で仕事をしている聖は、最初は仕事も手につかない程落ち込んでいた。

 秘書室に来るたびに本堂のデスクを見て落胆する姿はもはやおなじみだ。

 口数も減って、家でもほとんと喋らない。正義と澄子にいつもの調子で話しかけられても、一言二言返すだけですぐに自室に篭ってしまう。

 本当は以前から気付いていた。執務室に入った時、何度か見かけたことがあった。聖が本堂の履歴書を大事そうに見つめている姿を────。

 聖は本堂に心を許していると思っていた。それは、本堂が唯一、聖を「藤宮」扱いしなかったから。だが、そうではなかった。

 聖は本堂のことが好きなのだ。

 憂いを帯びた瞳はしょっ中窓の外を眺めている。こんな高層ビルの上の方から見えるはずもないのに、そこにいるかもしれない人物を見つけようとしているのだろう。

 聖は本堂が好きだから────だからあの時、「聖様」と呼ばれて辛かったのだ。だからあの時、「藤宮は藤宮らしく」と言われて傷付いたのだ。
 
 こんなにそばにいたのに、幼馴染の自分がなぜ気が付かなかったのか。自分でも気が付かない内に、彼らを勝手に判断していたのかもしれない。

 どうして本堂がここを去ったのか、なんとなく分かった気がした。

 あんなに悪態をつきながらも、本堂はいつも聖を見ていた。

 それは復讐の対象としてだったかもしれない。だがそれにしては、少し疎外感を覚えるくらい、本堂と聖はいつも楽しそうだった。

 聖が楽しいならばそれでいい。聖が安心できるなら文句などない。

 最初は本堂のことが嫌いだったが、聖の人を見る目は確かだ。次第に本堂も本当はいい奴なのかもしれないと思えるようになった。

 だが、本堂と腹を割って話せるようになったのに、彼の本当の気持ちを図り損ねていたのかもしれない。

 本心を打ち明けてくれた時に見た彼の苦しそうな表情は、葛藤していたからで、聖を尊敬しながらも憎しみが消えなくて、どうしたらいいか戸惑っている姿、そう思っていたが────。

 本堂は、聖のことを愛していたのではないだろうか。だから白鳥と聖の姿を見るのが辛かった。

 野蛮な本堂がゴミ箱を蹴飛ばしても驚かなかったが、普段冷静な男があれだけ怒っていたのは、もどかしかったからなのではないか。

 本当は、白鳥から聖を奪ってしまいたいと、そう思っていたはずだ。

 だが、そう出来なかったのは、復讐のせいなのか────。

 本堂はきっと、罪悪感を抱いたまま聖のそばにいられないと思ったのだろう。そんなまま、白鳥と聖の姿を見ながら過ごすなんて耐えられなかったに違いない。

 俊介にもその気持ちは痛いほど分かった。

 本当は本堂のことを羨ましいと思っていたのだ。

 自分は自我が強くない。仕方ないと諦められるのは、この生まれだからだ。だから本堂のように出来たらどんなに良いかと、言わなくても心の中で思っていた。

 俊介は聖の真似をするように窓の外を眺めた。だが、そこには本堂はいない。

 ────なあ、本堂。聖のことをまだ好きでいるなら……あいつのそばにいてやってくれ。

 深いため息を吐いたところで、スマートフォンのアラームが鳴った。

 会議の時間を知らせるために自身が設定したものだ。

 俊介は立ち上がり、執務室に続く扉をノックした。中からはっきりしない声が聞こえた。扉を開けると、聖が窓際に立っている姿が目に入った。

 聖は窓の外を眺めているようだった。俊介が入ってきたことには気付いているようだが、振り向こうともしない。

 恐らく聖は、そこで本堂の姿を見つけようとしているのかもしれない。こんな上の方から地上なんて見えるわけもないのに。

「聖……もうすぐ会議だ」

「うん……」

 声を掛けると、ぼやんとした返事が返ってきた。本堂が辞表を出した次の日からずっとこうだ。

「聖? 大丈夫か?」

「うん、ごめんなさい……」

「らしくないこと言うな。しんどいなら次の会議は俺が代わりに出るから心配しなくていい」

「ううん……出る。大丈夫」

「なあ、聖。ちょっと気晴らしに外でも出ないか? お前も籠りきりで疲れてると思うし……」

 俊介はそんな聖を見かねて提案した。会社から出れば聖も多少気が紛れると思った。

「いい、ちゃんと仕事するから……」

 聖は断ったが、瞳は暗く表情は死んでいる。

 以前の聖なら、きっとスーパーに行ってみたいなどと言うのだろうが、とてもそんな気分にはなれないのだろう。

 聖は恐らく、外に出ても本堂の姿を探すに違いない。

 昼休みになると聖は外に行くようになった。会社近くの、公園のベンチに。

 何も知らない。聞かされていないが、俊介はその場所に聖と本堂の思い出のようなものがあるのだと悟った。でなければ、何度も行かないだろう。

 聖は本堂が提出した辞表をいまだに受理していない。

 それを受理出来ないのは、いつか戻ってきて欲しいと思っているからだろう。
 
 俊介もそれを望んでいたが、これ以上はどうすればいいか分からず、安っぽ言葉で慰めることもできず、八方塞がりだった。
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