とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
「なんですって………」

 麗花はたわしを持った手をピタリと止めた。声を震えわせながら振り返ると、本堂を疑うような目で見つめた。

「一、あなた……」

「今まで黙ってて、悪かった……」

 本堂は顔を上げることが出来なかった。

 幼い頃、悪いことをした時によくこうやって怒られていたが、今は別だ。

 麗花の体がわなわなと震えていたのが分かった。麗花は本堂の肩を掴むと大きく揺すった。

「まさか、あなたまであの噂を信じていたんじゃないでしょうね……っ!? 言ってちょうだい! 一体なにをしていたの!?」

「う、わさ……?」

 その言葉に、本堂は一瞬固まった。意味が分からずなにも言えないでいると、麗花は怒ったように本堂に詰め寄った。

「とぼけないで! 一、まさか藤宮の会社にご迷惑は掛けたりしていないでしょうね!? お願いだから、そうだと言って!」

「母さん、待ってくれ……どういうことなんだ。噂って、なんの────」

 麗花は疑わしそうに本堂を見据えた。麗花も言葉に詰まっているようだった。だがやがて、渋々口を開いた。

「お父さんが……藤宮に融資を打ち切られたから自殺したっていう……話よ」

「そう、だろ……そうじゃねえのかよ! 俺だって見たんだ! ちゃんと帳簿も確認して────」

「そうじゃないわ! 確かに融資を打ち切られたのは事実だけど……お父さんが死んだのは、それとは別の……」

 ────何を言ってるんだ。

 麗花の言い方は、まるで父の自殺の原因は別にあるように聞こえた。

 本堂は呆然と、麗花が口にした言葉を頭の中で繰り返した。

「一、あなたが小さいから言わなかったけど……うちは元々裕福じゃないわ。それは分かってるわね」

「ああ……」

「今の会社だって、お父さんがあちこちに借金して作ったものなの。あの時、正直経営は上手くいってなかった……だから藤宮のところだけじゃない。他にもうちを切った会社はたくさんあったの」

「それでも大手の取引先だったんだろ……!? じゃあ────」

「経営が上手くいかなくなった頃から、お父さんは家に帰ってこなくなった……あなたには聞かせたくなかったのよ。お父さんが酒浸りになって、借金して……終いには車に撥ねられたなんて……っ」

 麗花は嗚咽を漏らして泣き始めた。

 本堂は唖然としたまま、口を失ったように黙りこくった。

 何一つ知らなかった。聞かされてなかったとはいえ、父がそんなことになっていたことを、自分は一つも知らなかった。あの従業員が言っていたことを鵜呑みにして、父を追い詰めたのは藤宮だとばかり思っていた。

 母は精一杯自分に悟らせないようにしていたのだ。壮絶な最後を遂げた父の死を。じゃあ、自分がやってきたことは一体なんだったのだろう。今まで藤宮に復讐しようとして費やした時間は? 聖を傷つけたことは?

 そのことを考え出すと、自分がやったことがとんでもない悪事のように思えて来て、今更身が竦んだ。

「嘘だろ…………」

 麗花はキッと本堂を睨みつけた。こんなに怒った母を、本堂は見たことがなかった。

「一……どうして藤宮の会社に入ったか、母さんだって聞かなくても分かるわ。あなた、復讐しようとしていたんでしょう」

 麗花の問いに、本堂は静かに頷いた。

 間髪入れずに麗花の平手が頬に飛んで、バチンと音を立てて痛みが走る。麗花の拳はわなわなと震えていた。

 あの優しかった母親に殴られるなんて本堂は思っても見なかったが、もし今聞いたことが本当なら彼女が叩くのも道理だ。

「どうして! そんなことをしようと思うの!? たとえお父さんが藤宮のせいで自殺したとしても……そんな人間に育てた覚えはないわ!」

 麗花のいう通りだった。

 弱い自分は復讐に負けた。強い人間なら、そんなことはしなかったかもしれない。人を傷つける輪廻を繰り返し、自分はまた聖を傷付けた。本当に、無駄な痛みを与えただけだったのだ。

「母さん……俺は、途中で帰ってきたんだ」

「え……?」

「母さんの言う通り、親父の復讐のために藤宮に入った。けど……出来なかった」

 本当に無駄だった。自分は一体何をしていたのだろう。憎しみに身を染めて、聖をいたずらに傷つけた。

 もし、それを知っていたら────何の隔たりもなく彼女を愛せたかもしれないのに。

「一、どうしたの………何があったの?」

「聖……ごめん……何も言えなくて……」

 こんなことなら、もっと聖の名前を呼んでおけばよかった。もっと笑わせてやればよかった。飽きるくらい外へ連れ出して、喜ばせてやればよかった。

 傷付けた時も後悔はあった。だが、その時よりももっと強い────罪悪感と、深い悲しみが、自分自身を責め立てた。

 強い聖は自分を守ろうとしたのに、どうして自分はそれと同じことができなかったのか。

 本堂はここ数年の記憶を話した。復讐するための月日ではなく、聖と会ってからの時間のことを。

 地面に座り込んで涙を溜めた本堂に、麗花は優しく背中をさすった。

「一、深い後悔があるなら……どうすればいいか分かるわね」

「もう、遅いんだ。聖は、遠くに行ったから……」

「違うわ、一。いつかあなたに話したことを覚えてる?」

 ────人間の価値は何で決まるか。麗花は小さな頃に教えてくれたあの言葉をもう一度言った。

「その人が持っているものを全てなくした時に残る物……それがその人の価値よ。あなたにいつか愛する人ができたら分かるようになるって言ったわね。あなたは、その人が全てを失っても愛することができる……そうでしょう?」

「ああ………」

 以前は分からなかったことも、今ならその意味が分かる。

 恐らく、聖が今持つものを失くしたところで自分の気持ちは変わらない。家柄なんかどうでもいい。財産だって、名誉だって、仕事のポジションだって、そんなこと知ったことではない。

 聖を好きでいることに、そんなことは関係なかった。

「そんな価値ある人を置いていくほどバカな男に育てた覚えはないわ」

「……そうだな」

「あなたも彼女にとって価値ある人になりたいのなら、真正面からぶつかりなさい」

「……ありがとう、母さん」

「いいのよ、復讐した後だったら二度と家の敷居を跨がせないところだったわ」

「……ちゃんと、また帰る」

「その子も、連れていらっしゃい。一が好きになった人なら母さんも会ってみたいからね」

「ああ………」
 
 本堂は久しぶりに笑った。絶望的な状況には変わりないが、それでも自分の中にあったわだかまりがとけて、以前よりもすっきりとした気持ちになった。

 本当に今更だが、もう一度聖に会いに行ってもいいのだろうか。

 自分は何も持っていないし、聖と違って金持ちでもない。身分もなければ、名前で人が動くほど高名でもない。

 だが、それでも彼女といたいという気持ちがあった。

 もう一度聖に会ったら、彼女にとって自分が価値のある男かどうか聞かせてもらおう。そして今度こそ真剣に謝って、本当の想いを伝えるべきだ。

 あの時のように「どうして私に近づいたの?」と言われたら、こう答えよう。

「聖、お前のことが好きなんだ」、と。

 もう誤魔化す必要はない。彼女にとっていつも本気の感情をぶつける自分でありたいから。
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