とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
 大きな腕と、広い肩が自分の身体を抱き締めていた。

 これはやはり幻なのだろうか。抱き締める体から鼓動がおぼろげに伝わってくる。

 やがて力強く抱き締めていた腕は離れて、本堂は真っ直ぐに自分を見つめた。

「俺はお前が好きだ」

 もう一度その言葉を口にした。

 聖は頭の中でリフレインする言葉の意味を必死に理解しようとしていた。

「嘘………」

「聖、俺の目を見ろ。嘘に見えるのか?」

 視線を合わせたまま、聖はすぐに首を振って、それを否定した。

 見えるわけがない。本堂の瞳は他の人間とは違う。

 自分の心の奥を見透かしたように、綺麗な目がじっと見つめた。

 自分がかつて、彼の中に見つけた怒りの感情はそこにはない。それは一体どこへ行ったのだろうか。

「お前にずっと言えなかったのは、俺が本当に復讐のためにお前に近付いたからだ」

 やっぱり、と聖は心の中で落胆した。どうして怒りの感情を抱いているのか。詳細は知らなかったが、想像はしていた。

「でも、それは俺の誤解だった」

「え………?」

「今お前に近づくのは復讐なんかじゃねえ、お前といたいからだ。俺はお前といたい。だから戻ってきた」

「どうして……?」

「簡単だろ」

 もう一度、彼は自分の身体を抱き締めた。今度はもっと力強く、苦しくなるくらいに。

「お前が好きだからだ。これ以上、どんな理由がお望みだ?」

 本当に、嘘ではないのだろうか。海に落ちた時から夢でも見ているのではないだろうか。

 今現実に起こっているのは、ずっと夢見ていたことだ。そんなことは叶わないと思っていた夢の中の話だ。

「はじめさん……本当に……?」

「バカ、何回言わせんだ」

「私のこと、本当に好きなの……?」

「好きだって言ってるだろ。本当に」

 目尻から涙が零れ落ちた。嬉しいのに、気持ちがいっぱいいっぱいで涙が止まらない。

 本堂の目が、ずっと自分のことを愛しそうに見つめていた。だからその言葉が嘘ではないと信じることができた。

 それでもどうして、と何度も聴きたくなる。彼の言葉が嬉しくて、何度でも聴きたかった。

「聖、俺はお前のことを何度も傷つけた。それが誤解だったとしても許されるとは思ってねえ。だけど、もしお前が許してくれるなら……俺のそばにいてほしい」

「私って……そんなに怒りっぽい女の子だと思われてるの?」

「怒ってねえのか」

「怒っていても、そばにいて……許さなくても、そばにいて……」

 抱きしめる彼の背中に腕を回した。こんなに広い背中だったのかと、今初めて知った。遠くから眺めるだけの本堂が、今はとても近くにいた。

「聖、お前成金馬鹿に部屋で何もされなかったのか」

「え、な……なんで知ってるの?!」

「とある筋から聞いてな」

「………俊介でしょう。なんで知ってるか知らないけど……そうよ」

「未遂か?」

 ギシッと音を立てて、本堂がベッドに手を付いた。

 確かめるようにじっと見つめてくる。本堂の顔がいつもよりずっと間近に迫って、思わず聖は構えた。

「な、何にもしてない! される前に海に飛び込んだの! 私だって、あんな人と……その……」

「……ならいい。そうじゃなきゃあいつをブタ箱行きにするところだ。けど、もう飛び込んだりするな。危ねえだろ」

「そこしか逃げるところがなかったのよ……それに、もうはじめさんも帰ってこないと思って……」

「まさかお前自棄になって身投げしたんじゃねえだろうな?」

 ジロリと睨まれて、聖は慌てて弁解した。

「そ、そんなわけないでしょう。あの時はどうしようもなかったの。船に乗せられたかと思ったら明日の朝まで港には着かないとか言われるし、いきなり部屋の鍵を見せつけられて、僕は結構うまいとか意味のわからないこと言われるし……」

「へえ? あいつそんなに上手いのか?」

「し、知らない! そんな────」

「ちょっとでもあいつに触らせたのか」

 静かな怒りを宿した瞳が目を見つめて、更に顔を近づける。

 問いただすような聴き方は疑っているからなのか。まるで射すくめられたように、その目を見たら動けなくなった。彼は恐らく心配していたのだろう。

「だ、大丈夫……触ったのは手くらいだから」

「……ならいい」

 迫っていた顔が少し離れて、寂しいやらホッとしたやらで聖の心臓は相変わらずうるさく音を立てていた。

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