とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
 退勤の時刻になると、隣の部屋にいた聖が声をかけてきた。あらかた仕事が片付いていた本堂と青葉は、それに応じて帰る支度をし始めた。

 エントランスまで歩いたところで、本堂は以前と違う点に気が付いた。

「そういえば青葉。お前聖の送り迎えはどうしたんだ?」

 毎朝白いロールスロイスに乗って通勤していた聖と、その運転手を務めていた青葉が、駐車場に行くことなくここまで歩いて来ることはない。

 聖は一人暮らしを始めたからわかるが、青葉までエントランスに来るとはどうしたことだろう。

「ああ、俺も屋敷を出て一人暮らし始めたんだよ」

「だから俊介も私も電車通勤なの」

「……電車には乗れるんだな」

「言うな本堂。聖は今でこそちゃんと乗れるが、最初は改札で引っかかってたんだ」

「だろうと思った」

「そんな昔の話はよして。今は乗れるんだからいいじゃない」

 ムッとして怒る聖をからかって、本堂はケラケラと笑った。

 青葉はともかく聖が電車に乗るのは意外だ。一人暮らしを始めたからそれも当然なのだろうが、てっきりまた青葉が送り迎えをするのだと思っていた。

 方向が違うからと青葉とは別れて、本堂と聖は駅に向かって歩いた。

「聖、晩飯はどうするんだ」

「うん、作ろうと思ってるけど……」

 本堂が笑っていると、聖は何かに気付いたのか、嬉しそうに答えた。

「約束だもんね?」

「五年も待たせたけどな」

 聖は会社の最寄駅から一駅離れた場所で下車した。

 駅の近くにあるスーパーに立ち寄ると、聖は入り口に置いてあったカゴを一つ持った。どうやら、カゴを持つということは知っているらしい。一人暮らしを始めたぐらいだから、もう何度か来たことがあるのだろう。

 店に入るなり、聖はまるで子供のように目をキラキラさせながら商品が置かれた棚を見ていた。

「飯の献立は?」

「えーと、見て決めるね!」

「早い話が無計画ってことだな」

「はじめさんには悪いけど、私今の所ご飯とお味噌汁しか作れないの。だからおかずはやっつけになるけど……食べれなかったらごめんなさい」

「は? いや、俺も食うのかよ?」

「え? 一緒に食べないの?」

 本当に今更だが、スーパーについて行ってそれだけで終わるはずがなかった。五年の間に頭が鈍くなったのだろうか。

 聖の家に行くなんて頭がなかったから、何も考えずについてきたが、よくよく考えてみれば自分たちはすでに恋人同士なので家に行くなんて当たり前だ。

 ただ、このお嬢様は本堂が来れないものと思って残念そうな顔をしているが、一人暮らしの女の家に男が上がる意味を分かっていなさそうで、本堂は盛大にため息を吐いた。

「聖」

「は、はい」

「飯は作って構わねえ。俺も手伝うし問題ねえよ」

「そっか、じゃあ大丈夫だね」

「どこかだ! お前は無自覚にも程があるんだよ! 少しは警戒しろ!」

「……侵入者を?」

「俺だ俺! 馬鹿みたいなこと言ってんじゃねえ! 俺が男だって分かってねえのかお前は……」

「冗談よ。ちゃんと分かってる」

「……本当かよ」

「いいよ、私はじめさんのこと信じてるから」

「そういう問題じゃねえだろ」

「だって、はじめさんがそういう人なら何にも言わずに家に来ていきなり襲えばいいでしょう? わざわざ私に伝えたってことはちょっとでも私を気遣ってるからよね?」

 聖は人を疑ったりしないのだろうか。

 白鳥の時は海に飛び込んだくらいなのに、まるで警戒心がなくて困ったものだ。なんだか自分の方が悪いことをしているような気分になって、本堂はどうしたものかと迷ったが、今更帰る気にもなれない。このまま付いていくことにした。

「ったくお前は……ほら、いいから好きなの選べ」

「ゆっくり見ていい?」

「分かった分かった。付いててやるから好きに見てろ」

「ありがとう、はじめさん」

 屈託のない笑顔を向けられると、聖がもう二十八歳だということを思い出した。出会った時はま大学生だったのに、もうすっかり大人になったように見える。

 そういう自分も、出会った時は二十八歳だったが、気が付いたら三十歳を超えていた。

 昔の記憶が抜けなくて、自分と聖が恋人同士なんてなんだか犯罪くさい気もするな、と本堂は聖とやや距離を空けて歩いた。
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