とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
「はじめさん……私、何もされてないよ」

 本堂が腕を緩めると、聖は少し体を起こして本堂の肩をそっと撫でた。

「……知ってる。じゃなきゃ、船から落ちたりはしねえだろうからな」

「じゃあなんで……」

「青葉に誘われて飲みに行った先のホテルで、たまたまお前と白鳥を見かけたんだ。俺はそれを見て……辞表を出したんだよ」

「私が信用できなかったから?」

「違う。その時、やっと……自分の気持ちに気付いたからだ」

 後からよく考えれば、聖は何もされていなかったのだろう。だがその時はその光景にただただショックを受けていて、何も考えられなかった。

「何度も後悔した。お前に言わなかったことも、気付けなかったことも。気付いたとしても俺には復讐があって、お前にそれを素直に打ち明けることも出来なかった」

「はじめさん……」

「白鳥のものになるお前を見てられなかった。なのに自分は何も出来ねえなんて耐えられるわけがねえ……だから俺は、辞表を書いたんだ。……お前を傷つけることも、お前が奪われることも嫌だった」

 ただの逃げだな、と本堂は呆れたように自分を笑った。今も、もういなくなった白鳥相手に嫉妬しているなんて(ざま)はない。

「はじめさんは、いつから私のことが好きなの?」

 聖は突然そんなことを聞いた。

「……そんなこと覚えてねえよ。気がついたらだ」

「じゃあ、私のどこが好きなの?」

「……何が聞きたいんだお前は」

「いいから教えて」

 聖はずいっと本堂に詰め寄った。本堂は渋々考えた言葉を口に出した。

「………尊敬できる」

「あとは?」

「……思い遣りがある」

「他は?」

「あのな、いちいち教えなきゃ俺がお前のこと好きって分かんねえのか?」

「私はね」

 本堂の言葉を遮るように聖は話しを続けた。

「ぶっきらぼうだけど実は優しくて、人に対して気遣いができて、私みたいな世間知らずのお嬢様の戯言も笑わずに聞いてくれて……」

 聖は、本堂に言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「私にいつも本気で向き合ってくれるところが好きなの」

 聖は優しく笑うと、驚く自分を抱きしめた。小さな体に包み込まれて、また目の前の女性が歳下だということを忘れそうになった。
 
 こういうところも好きだった。歳下のくせに、大人っぽくて達観していて、自分の方が歳上なのについそれを忘れてしまいそうなほどの包容力は、ほんの少しの不安すら溶かしてしまう。

「もう、どこへも行かないで……」

「嫌だって言ったら?」

「また出て行くの?」

「一緒に、行くんだろ?」

 そうだね、と柔らかく微笑んだ彼女に、もう一度口付けを落とした。

 聖がつまらないと言うなら、違う場所へ連れて行くだろう。広い場所がいいというのなら、遮るもののないところへ行くだろう。

 もう、前を歩く聖ではないのだ。今は隣で歩くことができる。

 聖はお人形ではなくなったのだから。
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