竜の末裔と生贄の花嫁〜辺境の城の恋人たち〜
 館の下働きをしているアンヌには、子供も孫もいる。そんな彼女から見れば、アメリアなどはもう孫に近い年齢だ。そのせいか、微笑み合う二人を見る度に泣けてきてしまう。
 とは言え、何かとエプロンで顔を覆って泣くアンヌを笑える者は、館には一人もいない。

 今日もアンヌは掃除道具を抱えて図書室の扉を開けた。本の整理は彼女の仕事ではないが、奥の棚から順に羽根箒でそっと埃を払い、床を拭いてゆく。本を損なうことのないよう慎重に仕事をしていたアンヌは、ふと顔を上げて驚いた。
 いつの間にか長椅子に主夫婦が座り、仲睦まじく二人で大きな本を覗き込んでいる。

「あら、気付きませんで」

 二人がいるのに埃などたてられない。アンヌは慌てて退散した。

 ――入っていらしたのに気付かないなんて、あたしもついに耳が遠くなったのかね……? それにしてもお二人のお幸せそうなこと……!

 図書室の扉の外で、アンヌはまたもエプロンで涙を拭った。


「アンヌの邪魔をしてしまったかしら、ヴィルフリート様?」
「アンヌなら大丈夫だ。私がここに入り浸るのは、いつものことだからね」

 ヴィルフリートは笑って、アメリアのこめかみに口付ける。
 二人が見ていたのは王国の地図だった。いつもの崖の上から見える湖を調べていたのだ。

「うん、方向から言ってこのブリンツェ湖だろうね」
「まあ、見た目よりも遠いのですね」

 アメリアが感心して覗き込むと、ヴィルフリートの指が街道を辿る。

「ちなみに王都はここだ。君はおそらく、この道を通って来たのだろう」
「王都……」

 地図上に細く記される、一本の街道。「竜の城」はここだとヴィルフリートが示したた位置からは、遠く離れている。湖までの距離の、いったい何倍あるのだろう? 

「三日もかかるはずですね、こんなに遠いのでは」

 あの長い旅を思い返し、アメリアはほうと息をついた。こうして地図で見ると、よくもここまで来られたものだと思う。

「……帰りたいとは、思わないか?」

 思いがけない言葉に振り仰ぐと、本を傍らに置いたヴィルフリートがそっとアメリアの手をとった。

「王都には、ご家族もいるのだろう?」
「家族……」

 確かにカレンベルク邸には、母と義父、それから弟がいる。しかしアメリアには、それはひどく色あせた、遠い記憶のように思えた。

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