とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
「「あの────」」
二人同時に声が被る。
「いや、やっぱええわ」
「いえ、なんでもありません」
またしても被る。気不味さが余計に増して、美帆はもう黙ることにした。
「……久しぶりやな」
文也は遠慮がちに切り出した。とてもこの間自分を罵倒したとは思えない遠慮っぷりだ。
「……そうですね」
再び沈黙が流れた。
あんなにも話したいと思っていたのにどうして目の前にすると言葉が出てこないのだろうか。聞きたことは山ほどある。知りたいことも山ほどある。
けれどあの時から、自分達の間には壁のようなものが出来てしまったような気がした。
「まさかいるとは思わんかったわ……。あの社長さんも人が悪いな」
「私も……驚きました」
「……《《杉野さん》》は、俺なんかと話したくなかったやろ」
────杉野さん。
その言葉になんだかショックを受けた。何を傷付いているのだろう。自分たちの関係は仮初のものだったのだから、当然のことだ。文也にとって、自分は騙す相手だった。また涙が出そうになる。
「けど……俺はずっと話したかってん。あの時のことも、謝りたかった」
「どうして……」
どうして、私を騙したんですか。
悲しみがぶり返して苦しくなる。辛い出来事をそう何度も思い出したくない。
だが、知りたかった。自分が見てきた文也が嘘でないなら、文也がどうしてあんなことをしたのか知りたかった。今更知ったところでどうにも出来なくても理解したかった。
「……親父と折り合い悪い話はしたやろ」
文也はいつかそんな話をしていた。美帆はその話を思い出して頷いた。
「杉野さんと初めて会うちょっと前に、急に親父から連絡が来てん。簡単に言うと藤宮のせいで業績が悪くなってるって愚痴やった。そんで、親父は俺が藤宮と取引してんのを利用して産業スパイを頼んだ」
「えっ……!?」
文也は苦々しい表情を浮かべた。
「……俺はその時津川から独立した状態やったけど、俺の会社は津川商事の傘下にさせられて、言うこと聞くしかなかってん。半分以上脅しやな。アイツ、手段選ばんから会社がどうなるか分からん」
それはつまり、脅されていたということだろうか。実の父親に?
津川フロンティアは比較的大きな会社だが、津川商事に比べれば中小企業だ。文也の言う通り首を縦に振らばければどうなるか分からない状況だったのだろう。
「だから俺も手段は選んでられんかった。とにかく藤宮の情報が必要やから……」
「滝川さんは、あなたですよね」
「────!! 知ってたんか」
「……偶然、知ってしまったんです」
「……そうや。それで俺は清掃員に化けて藤宮の内部の情報を手に入れようとした。その時偶然……杉野さんの話を聞いてん」
「……それで、私を利用しようと思ったんですね」
言葉にすると辛かった。だが、文也も同じように辛そうな表情をしていた。
「最初は本当にそのつもりやった。俺は杉野さんのこと口も頭もが軽そうな女やと思ってたし、うまくいくと思った。けど、結果は散々やった」
────だからあの時、突然私に話しかけてきたんだ。
ずっとおかしいと思っていた謎が解けた。だが、スッキリはしなかった。あの出会いが仕組まれたものだと確信に至っただけだ。
「けど俺はそれでもなんとかせなあかんかったから杉野さんに食い下がった。けど、そのうち本気で好きになってしもてん」
「……え?」
「アホやろ、俺。元々騙し合いとか向いてないねんな。けど杉野さんにはすっかり嫌われてたし、両想いになれるなんて思わんかった。だから、旅行について来てくれた時はほんまに嬉しかってん」
「え? ま、待ってください。何を言ってるんですか。あなたは私を騙してたんでしょう。私のこと好きなわけが────」
「……あれは嘘ちゃうよ。俺は本気で杉野さんのこと好きやった」
夢でも見ているのだろうか────。せっかく文也の本心を聞いたのに驚いてばかりで言葉にできない。
嘘だとばかり思っていた。どこかで期待しながらも信じられなかった。だが、沙織と社長の言った通りだったのだろうか。
「今更、俺がこんなこと言っても信じられんと思う。俺は最悪なことしたし、杉野さんを傷付けたのは事実やから。けど、これだけは信じてほしいねん。「美帆」と付き合ってからの俺はほんまの俺やった。好きって気持ちに嘘はひとつもない」
「じゃあ……どうしてあんな嘘をつくんですか。あなたは、私に何も聞かなかった! 会社のことだって仕事のことだって。ひとつも────」
「……聞こうと思ったことはあったよ。結局言われへんかっただけで。でも結局同じやった。親父に杉野さんのことがバレて結果的にあんなことになったんやから」
「バレたって……」
「親父は杉野さんを利用しようとしてん。あの事件引き起こしたんは親父や。うちの会社にスパイがおってな。おかげで散々な目に遭ったわ」
「どうして……どうして言ってくれなかったんですか!」
わなわなと唇が震えた。怒りで目頭がカッと熱くなる。押し殺していた感情が爆発した。
「なんで一人で悩むんですか! あんな馬鹿みたいな言い訳して、社長室に乗り込んで、馬鹿丸出しです!」
「仕方ないやんか! 俺だって、まさか親父があんなことしてると思わんかってん! 杉野さんのIDが盗まれてるって分かってんのに何もせえへんわけにはいかんやろ!」
「だからって悲劇のヒーローぶるつもりですか! 勝手過ぎます! 私がどれだけ傷付いたと思ってるんですか……っ本当はずっと聞きたかった! どうして滝川さんのふりをしてるのか……なんで嘘ついてるのか……いつかは喋ってくれると思って待ってたのに」
文也はごめん、と言った。
美帆は怒りが湧いた。文也を脅していたなんて許せない。しかもそれが実の父親だなんて、文也の心境は穏やかではないだろう。今まで一体どんな思いでいたのだろうか。
文也はずっと一人で耐えていたのだ。そう思うと勝手に涙が零れた。
「本気で好きちゃうかったら、騙してるって言えた。けど、それを言ったら杉野さんは傷付くやろ……。あかんたれやねんな。俺、杉野さんのことは基本」
ペちんと文也の頬を叩く。美帆は精一杯文也を睨みつけた。
「じゃあ、もう嘘はつかないでください……ちゃんと全部、本当のことを言って」
「俺、杉野さんのこと好きやねん。ほんまに、自分でもわけ分からんぐらい」
「……嘘だったら許しませんよ」
「嘘ちゃうよ」
文也はゆっくりと近付き、美帆の頭を胸に押しつけた。頭上で「俺のこと嫌いになったやろ」、と弱気な声が聞こえた。
社長室であんな振る舞いをしていた人とは思えない。いつぞやの男らしさはいったいどこへ行ったのだろう。
美帆はなんだか可愛い、と思ってしまった。こんな時なのに不謹慎だろうか。これが本当の文也だ。そう思うと嬉しかった。
「大嫌いです」と言うと、抱きしめていた文也の腕が少し浮いたのが分かった。
「嘘です」と言い直すと、体を少し離した文也がムッとした顔で怒った。
「それはひどいやろ」
「私に嘘ついた人が何言ってるんですか」
「……はい」
「冗談です。大好きですよ。文也さん」
二人同時に声が被る。
「いや、やっぱええわ」
「いえ、なんでもありません」
またしても被る。気不味さが余計に増して、美帆はもう黙ることにした。
「……久しぶりやな」
文也は遠慮がちに切り出した。とてもこの間自分を罵倒したとは思えない遠慮っぷりだ。
「……そうですね」
再び沈黙が流れた。
あんなにも話したいと思っていたのにどうして目の前にすると言葉が出てこないのだろうか。聞きたことは山ほどある。知りたいことも山ほどある。
けれどあの時から、自分達の間には壁のようなものが出来てしまったような気がした。
「まさかいるとは思わんかったわ……。あの社長さんも人が悪いな」
「私も……驚きました」
「……《《杉野さん》》は、俺なんかと話したくなかったやろ」
────杉野さん。
その言葉になんだかショックを受けた。何を傷付いているのだろう。自分たちの関係は仮初のものだったのだから、当然のことだ。文也にとって、自分は騙す相手だった。また涙が出そうになる。
「けど……俺はずっと話したかってん。あの時のことも、謝りたかった」
「どうして……」
どうして、私を騙したんですか。
悲しみがぶり返して苦しくなる。辛い出来事をそう何度も思い出したくない。
だが、知りたかった。自分が見てきた文也が嘘でないなら、文也がどうしてあんなことをしたのか知りたかった。今更知ったところでどうにも出来なくても理解したかった。
「……親父と折り合い悪い話はしたやろ」
文也はいつかそんな話をしていた。美帆はその話を思い出して頷いた。
「杉野さんと初めて会うちょっと前に、急に親父から連絡が来てん。簡単に言うと藤宮のせいで業績が悪くなってるって愚痴やった。そんで、親父は俺が藤宮と取引してんのを利用して産業スパイを頼んだ」
「えっ……!?」
文也は苦々しい表情を浮かべた。
「……俺はその時津川から独立した状態やったけど、俺の会社は津川商事の傘下にさせられて、言うこと聞くしかなかってん。半分以上脅しやな。アイツ、手段選ばんから会社がどうなるか分からん」
それはつまり、脅されていたということだろうか。実の父親に?
津川フロンティアは比較的大きな会社だが、津川商事に比べれば中小企業だ。文也の言う通り首を縦に振らばければどうなるか分からない状況だったのだろう。
「だから俺も手段は選んでられんかった。とにかく藤宮の情報が必要やから……」
「滝川さんは、あなたですよね」
「────!! 知ってたんか」
「……偶然、知ってしまったんです」
「……そうや。それで俺は清掃員に化けて藤宮の内部の情報を手に入れようとした。その時偶然……杉野さんの話を聞いてん」
「……それで、私を利用しようと思ったんですね」
言葉にすると辛かった。だが、文也も同じように辛そうな表情をしていた。
「最初は本当にそのつもりやった。俺は杉野さんのこと口も頭もが軽そうな女やと思ってたし、うまくいくと思った。けど、結果は散々やった」
────だからあの時、突然私に話しかけてきたんだ。
ずっとおかしいと思っていた謎が解けた。だが、スッキリはしなかった。あの出会いが仕組まれたものだと確信に至っただけだ。
「けど俺はそれでもなんとかせなあかんかったから杉野さんに食い下がった。けど、そのうち本気で好きになってしもてん」
「……え?」
「アホやろ、俺。元々騙し合いとか向いてないねんな。けど杉野さんにはすっかり嫌われてたし、両想いになれるなんて思わんかった。だから、旅行について来てくれた時はほんまに嬉しかってん」
「え? ま、待ってください。何を言ってるんですか。あなたは私を騙してたんでしょう。私のこと好きなわけが────」
「……あれは嘘ちゃうよ。俺は本気で杉野さんのこと好きやった」
夢でも見ているのだろうか────。せっかく文也の本心を聞いたのに驚いてばかりで言葉にできない。
嘘だとばかり思っていた。どこかで期待しながらも信じられなかった。だが、沙織と社長の言った通りだったのだろうか。
「今更、俺がこんなこと言っても信じられんと思う。俺は最悪なことしたし、杉野さんを傷付けたのは事実やから。けど、これだけは信じてほしいねん。「美帆」と付き合ってからの俺はほんまの俺やった。好きって気持ちに嘘はひとつもない」
「じゃあ……どうしてあんな嘘をつくんですか。あなたは、私に何も聞かなかった! 会社のことだって仕事のことだって。ひとつも────」
「……聞こうと思ったことはあったよ。結局言われへんかっただけで。でも結局同じやった。親父に杉野さんのことがバレて結果的にあんなことになったんやから」
「バレたって……」
「親父は杉野さんを利用しようとしてん。あの事件引き起こしたんは親父や。うちの会社にスパイがおってな。おかげで散々な目に遭ったわ」
「どうして……どうして言ってくれなかったんですか!」
わなわなと唇が震えた。怒りで目頭がカッと熱くなる。押し殺していた感情が爆発した。
「なんで一人で悩むんですか! あんな馬鹿みたいな言い訳して、社長室に乗り込んで、馬鹿丸出しです!」
「仕方ないやんか! 俺だって、まさか親父があんなことしてると思わんかってん! 杉野さんのIDが盗まれてるって分かってんのに何もせえへんわけにはいかんやろ!」
「だからって悲劇のヒーローぶるつもりですか! 勝手過ぎます! 私がどれだけ傷付いたと思ってるんですか……っ本当はずっと聞きたかった! どうして滝川さんのふりをしてるのか……なんで嘘ついてるのか……いつかは喋ってくれると思って待ってたのに」
文也はごめん、と言った。
美帆は怒りが湧いた。文也を脅していたなんて許せない。しかもそれが実の父親だなんて、文也の心境は穏やかではないだろう。今まで一体どんな思いでいたのだろうか。
文也はずっと一人で耐えていたのだ。そう思うと勝手に涙が零れた。
「本気で好きちゃうかったら、騙してるって言えた。けど、それを言ったら杉野さんは傷付くやろ……。あかんたれやねんな。俺、杉野さんのことは基本」
ペちんと文也の頬を叩く。美帆は精一杯文也を睨みつけた。
「じゃあ、もう嘘はつかないでください……ちゃんと全部、本当のことを言って」
「俺、杉野さんのこと好きやねん。ほんまに、自分でもわけ分からんぐらい」
「……嘘だったら許しませんよ」
「嘘ちゃうよ」
文也はゆっくりと近付き、美帆の頭を胸に押しつけた。頭上で「俺のこと嫌いになったやろ」、と弱気な声が聞こえた。
社長室であんな振る舞いをしていた人とは思えない。いつぞやの男らしさはいったいどこへ行ったのだろう。
美帆はなんだか可愛い、と思ってしまった。こんな時なのに不謹慎だろうか。これが本当の文也だ。そう思うと嬉しかった。
「大嫌いです」と言うと、抱きしめていた文也の腕が少し浮いたのが分かった。
「嘘です」と言い直すと、体を少し離した文也がムッとした顔で怒った。
「それはひどいやろ」
「私に嘘ついた人が何言ってるんですか」
「……はい」
「冗談です。大好きですよ。文也さん」