とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
────あかん。苦行やわ。
決心してからはや小一時間が経った。
美味しそうに寿司を頬張る美帆の横で、文也は少し前自分の心に誓った決心が早くも揺らぐのを感じた。
契約の祝いにお寿司でも食べにい行きましょうと美帆に誘われ寿司屋に入ったのはいいものの、カウンター席で横並びになると意外にも距離が近く、ついあれこれよからぬことを考えてしまう。
普段仕事の時はかっちり髪をまとめている美帆だが、仕事が終わると髪を下ろす。横にいるとシャンプーの芳しい香りがふわっと漂ってきてつい鼻をくっつけたくなった。
────美帆っていっつも美味そうにご飯食べるねんなぁ。
などと思いながら放送禁止用語が頭の中でポンポン飛び出す。
現在誠実キャンペーン実施中だが、いかんせん中身は健全な二十代の男なので寿司を見てもシャンプーの香りを嗅いでもたどり着くところは一つしかない。
「文也さん? どうしたんですか。箸止まってますよ」
「え? ああ。このサーモンめっちゃ美味しいなと思って」
────美帆の唇もめっちゃ美味そうやけど。
もう黙ろう、と思った。これ以上考えたら本当に手を出しそうだ。
「……もしかして、お父さんのことですか?」
「は?」
「いえ……今回のことでお父さんと仲違いしてしまったのなら、辛いだろうなと思います。家族と喧嘩なんて、いやですよね……」
どうやら盛大に勘違いしているようだ。考えていたのは父親のことではない。そんなもの美帆の前ではすっかりどこかへ消え去っていた。
確かに悩ましい問題ではある。一応会社はどうにかなったものの、かといってあの父親と縁が切れたわけではない。今後何もしてこないとは言い難い。
だが、文也は正直勘当してもらった方が楽だと思っていた。今更家族面されてもその方が困る。自分には美帆と会社があれば十分だ。
「大丈夫。俺そんなに悩んでへんから」
「けど……」
「多分、美帆が思ってるほど普通の家じゃないねん。当たり前の家族みたいな、そういうのはいっこもなかってん。だから気にせんでええよ」
そう言うと美帆は一層悲しそうな表情を浮かべた。
美帆は普通の家庭で育ったのだろうか。それならきっと、「津川家」を見たらひっくり返るほど驚くことだろう。
父親は馴れ合いや情というものを嫌っている。だから家族に対しても厳しい。あの家は温かい家庭とはおおよそかけ離れていた。
だからきっと美帆のような女性に惹かれたのだろう。
他人なのにこんな自分に親身になってくれる。一緒にいるとホッとする。父親に要求されることはあんなにも苦痛だったのに、美帆はその逆だ。願ってもらえないと物足りない。だから大事にしたいのだ。
「俺は美帆が楽しそうにしとってくれたらそれでええよ」
「文也さんはそんな謙虚な人じゃないでしょう」
「傲慢やって?」
「違いますよ。自分の幸せを追求してるなって思ったんです。生まれた時の環境ってどうしようもなくて選べないですけど、文也さんはちゃんと自分で欲しいものを探してるじゃないですか。きっとみんなどこかに幸せの形があるんです。だから、文也さんが欲しいものを見つけたらいいと思います」
「美帆は?」
「え?」
「美帆は何が幸せなん?」
「そうですね……うーん、ちょっと前までは彼氏が欲しいなって思ってました。同僚がみんな恋人とか旦那さんがいて、自分だけ取り残されてるような、そういう寂しさが嫌だったんです」
それで男性とデートしていたのだろうか。だが、結果は文也も見た通りだ。美帆は心を開けず、男性の方も何かが違うと距離が離れた。男女の恋は出会えば必ず発展するというものではない。きっとそれぞれのタイミングがあるのだろう。
しかし、意外だ。美帆のような女性でもそんな寂しさを感じることがあるのだ。
第三者から見れば美帆は就職先に恵まれ容姿端麗で欲しいものを欲しいままにしているように見える。外見からは想像が出来ないが、思っていたよりも普通の女性だ。
「じゃあ、俺といたらちょっとは寂しくなくなった?」
「文也さんとは……寂しかったからいたわけじゃありません」
「じゃあ、なんで?」
「文也さんのそばに────」
「へい、お待ち!」
抜群の、最悪のタイミングで寿司が目の前に出される。
────大事なところが聞かれへんかったやんけ。
文也は寿司屋の店員を睨みたいところだったが、大人気ないのでやめた。
「ほら、文也さん。《《えんがわ》》ですよ。わけっこしましょう」
ひとまず、美帆が喜んでいるからよしとしよう。
食事も終わり、二人は駅に向かって歩いた。美帆は久しぶりに寿司が食べれたとごきげんの様子だ。
文也も昼間より安心した。謝罪したものの美帆が心変わりしないか心配していたが、美帆は以前のように接してくれた。
「文也さん、JRですよね。私はメトロなのでこっちなんです」
「ああ」
「今日はありがとうございました。あの、じゃあまた────」
「美帆」
既に美帆のつま先は文也とは別の方向を向いていた。だが、なんだか名残惜しくて引き止めてしまった。もうそこそこ遅い時間だ。明日も仕事があるだろうし、これ以上引き止めるべきではない。
文也は伸ばしかけた手を引っ込めた。
「……いや、また誘うわ。気いつけて帰ってな」
「はい。おやすみなさい」
美帆が背中を向けたのを確認して、文也も駅へ向かった。
なんだかあっけない別れだな、と思った。せっかく仲直りしたのだからもっと一緒にいたい。もっと近付きたい。
だが、仲直りしてすぐにベタベタすると体目的だと思われる可能性もある。痩せ我慢なんて性に合わないが、ここは信頼回復のためだと思って我慢するしかないだろう。
決心してからはや小一時間が経った。
美味しそうに寿司を頬張る美帆の横で、文也は少し前自分の心に誓った決心が早くも揺らぐのを感じた。
契約の祝いにお寿司でも食べにい行きましょうと美帆に誘われ寿司屋に入ったのはいいものの、カウンター席で横並びになると意外にも距離が近く、ついあれこれよからぬことを考えてしまう。
普段仕事の時はかっちり髪をまとめている美帆だが、仕事が終わると髪を下ろす。横にいるとシャンプーの芳しい香りがふわっと漂ってきてつい鼻をくっつけたくなった。
────美帆っていっつも美味そうにご飯食べるねんなぁ。
などと思いながら放送禁止用語が頭の中でポンポン飛び出す。
現在誠実キャンペーン実施中だが、いかんせん中身は健全な二十代の男なので寿司を見てもシャンプーの香りを嗅いでもたどり着くところは一つしかない。
「文也さん? どうしたんですか。箸止まってますよ」
「え? ああ。このサーモンめっちゃ美味しいなと思って」
────美帆の唇もめっちゃ美味そうやけど。
もう黙ろう、と思った。これ以上考えたら本当に手を出しそうだ。
「……もしかして、お父さんのことですか?」
「は?」
「いえ……今回のことでお父さんと仲違いしてしまったのなら、辛いだろうなと思います。家族と喧嘩なんて、いやですよね……」
どうやら盛大に勘違いしているようだ。考えていたのは父親のことではない。そんなもの美帆の前ではすっかりどこかへ消え去っていた。
確かに悩ましい問題ではある。一応会社はどうにかなったものの、かといってあの父親と縁が切れたわけではない。今後何もしてこないとは言い難い。
だが、文也は正直勘当してもらった方が楽だと思っていた。今更家族面されてもその方が困る。自分には美帆と会社があれば十分だ。
「大丈夫。俺そんなに悩んでへんから」
「けど……」
「多分、美帆が思ってるほど普通の家じゃないねん。当たり前の家族みたいな、そういうのはいっこもなかってん。だから気にせんでええよ」
そう言うと美帆は一層悲しそうな表情を浮かべた。
美帆は普通の家庭で育ったのだろうか。それならきっと、「津川家」を見たらひっくり返るほど驚くことだろう。
父親は馴れ合いや情というものを嫌っている。だから家族に対しても厳しい。あの家は温かい家庭とはおおよそかけ離れていた。
だからきっと美帆のような女性に惹かれたのだろう。
他人なのにこんな自分に親身になってくれる。一緒にいるとホッとする。父親に要求されることはあんなにも苦痛だったのに、美帆はその逆だ。願ってもらえないと物足りない。だから大事にしたいのだ。
「俺は美帆が楽しそうにしとってくれたらそれでええよ」
「文也さんはそんな謙虚な人じゃないでしょう」
「傲慢やって?」
「違いますよ。自分の幸せを追求してるなって思ったんです。生まれた時の環境ってどうしようもなくて選べないですけど、文也さんはちゃんと自分で欲しいものを探してるじゃないですか。きっとみんなどこかに幸せの形があるんです。だから、文也さんが欲しいものを見つけたらいいと思います」
「美帆は?」
「え?」
「美帆は何が幸せなん?」
「そうですね……うーん、ちょっと前までは彼氏が欲しいなって思ってました。同僚がみんな恋人とか旦那さんがいて、自分だけ取り残されてるような、そういう寂しさが嫌だったんです」
それで男性とデートしていたのだろうか。だが、結果は文也も見た通りだ。美帆は心を開けず、男性の方も何かが違うと距離が離れた。男女の恋は出会えば必ず発展するというものではない。きっとそれぞれのタイミングがあるのだろう。
しかし、意外だ。美帆のような女性でもそんな寂しさを感じることがあるのだ。
第三者から見れば美帆は就職先に恵まれ容姿端麗で欲しいものを欲しいままにしているように見える。外見からは想像が出来ないが、思っていたよりも普通の女性だ。
「じゃあ、俺といたらちょっとは寂しくなくなった?」
「文也さんとは……寂しかったからいたわけじゃありません」
「じゃあ、なんで?」
「文也さんのそばに────」
「へい、お待ち!」
抜群の、最悪のタイミングで寿司が目の前に出される。
────大事なところが聞かれへんかったやんけ。
文也は寿司屋の店員を睨みたいところだったが、大人気ないのでやめた。
「ほら、文也さん。《《えんがわ》》ですよ。わけっこしましょう」
ひとまず、美帆が喜んでいるからよしとしよう。
食事も終わり、二人は駅に向かって歩いた。美帆は久しぶりに寿司が食べれたとごきげんの様子だ。
文也も昼間より安心した。謝罪したものの美帆が心変わりしないか心配していたが、美帆は以前のように接してくれた。
「文也さん、JRですよね。私はメトロなのでこっちなんです」
「ああ」
「今日はありがとうございました。あの、じゃあまた────」
「美帆」
既に美帆のつま先は文也とは別の方向を向いていた。だが、なんだか名残惜しくて引き止めてしまった。もうそこそこ遅い時間だ。明日も仕事があるだろうし、これ以上引き止めるべきではない。
文也は伸ばしかけた手を引っ込めた。
「……いや、また誘うわ。気いつけて帰ってな」
「はい。おやすみなさい」
美帆が背中を向けたのを確認して、文也も駅へ向かった。
なんだかあっけない別れだな、と思った。せっかく仲直りしたのだからもっと一緒にいたい。もっと近付きたい。
だが、仲直りしてすぐにベタベタすると体目的だと思われる可能性もある。痩せ我慢なんて性に合わないが、ここは信頼回復のためだと思って我慢するしかないだろう。