とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 仕事を終えて家に帰った。美帆は毎日のルーティーン、テレビをつけて料理を始めた。

 テレビ番組のBGMを聴きながら野菜を炒めていると、美帆のスマホが鳴った。お気に入りの歌手のBGMは電話の着信音だ。

「はいはい、ちょっと待って」

 濡れた手を拭いてテーブルの上に置かれたスマホを見る。電話は文也からだった。

「もしもし?」

『お疲れさん。もう家?』

「はい。今ご飯作ってました」

『ええな。俺も食べたいわって言いたいところやけど……取引先とこれから飯やねん』

「じゃあ、また今度ですね」

 美帆はスマホを耳に当てたままキッチンに戻った。炒める音が少しうるさいが、電話が聞こえないほどではない。

『そうそう、今日面接やってん』

「面接?」

『前に言ったやろ? 秘書』

「あ────今日だったんですか」

『せやねん。そんで、一応決まったわ』

「どんな人なんですか?」

 美帆は何気なく尋ねた。だが、すぐに後悔した。

『若い女の子やねんけどな。受け答えもしっかりしてたし、明るい性格の子やからやりやすそうやで。経験は足らんけど……まぁ育てるつもりで指導するわ』

 ────女の子。しかも私より若いんだ。

 美帆はなんとなく嫌な気分になった。その可能性も考えていたが、そうならないことを期待していた。

 文也が浮気するなんて考えたくないが、その女の子が可愛かったらもしかしたら好きになってしまうかもしれない。そしたら三十路の自分などさっさと捨てられてしまうのではないだろうか。

 美帆が黙っていると、文也はなんでもないことだと笑い飛ばした。

「大丈夫やって。そんな感じの子ちゃうし」

「別に心配してないですよ。仕事なんですから」

 言い聞かせるように言う。自分に? いや、文也にだろうか。いつからこんな嫌な女になってしまったのだろう。

「なぁ、美帆。明日仕事終わった後会われへん?」

「明日は……はい。大丈夫です。でも忙しいんじゃないんですか」

「会いたいから。あかん?」

 文也は本当に人の嫌な感情を消すのが上手だ。多分、一人だったらぐるぐる悩んでいたに違いない。直接会えば少しは不安も和らぐだろう。

「分かりました。多分、定時で上がれると思います」

「ならその時間に迎えに行くな」




 翌日、予定通り仕事は滞りなく終わった。

 美帆は帰り支度を済ませ、エレベーターに乗った。一階ボタンを押し、ガラス窓の外を眺めた。

 ────文也さん、私を心配して誘ってくれたんだろうな。一人で不安になってちゃ駄目だ。もっと信頼しないと。

 不意にチン、と電子音が鳴った。エレベーターの機体は静かに停止し、扉が開いた。

「あ、美帆」

「え?」

「お疲れ様。まさかここで会うとはな」

 エレベーターに乗って来たのは良樹だった。

「そっか、もう仕事始まってるんだね」

「ああ。今は営業二課に配属されてる」

「そっか……」

「美帆は? 受付って総務課だよな」

「今は総務課だけどヘルプで秘書課の方も行ってるの」

「秘書課? すごいな」

「努力しましたから」

 自信満々に答えると、良樹はくく、と笑いを堪えた。

「相変わらずだな。美帆は全然変わってないよ」

「そういう良樹だって」

 エレベーターが一階に着いた。美帆と良樹はロビーに出ると再び横に並んだ。

「仕事はどう?」

「まぁまぁ。大手なだけあって厳しいけど、なんとかやっていくさ」

「良樹なら大丈夫だよ。頑張ってね」

 回転式の自動扉の前まで行くと良樹は「どうぞ」と美帆に譲った。こういうところを見ると海外生活をしていたんだと感じる。

 けれど優しいところは変わっていないようだ。あれから十年近く経ったが、変わったのは見た目だけかもしれない。

「美帆、これから帰るんだろ? もし空いてるなら一緒に食事でもいかないか」

 外に出ると、良樹は笑顔で提案した。多分、久しぶりに会ったから色々話したいことがあるのだろう。

 だが今日は文也と約束しているし、あまり二人で会うのはよろしくない。

「えっと、今日はちょっと────」

「美帆」

 会話を割るように声が聞こえた。聞き覚えのある声に、美帆はすぐさま振り返った。

「何してるん?」

 文也はいつもより機嫌が悪そうだ。美帆の横に来ると、笑顔のひとつも浮かべず声を掛けた。

「あ、文也さん……。えっと────」

「どうも。この度中途採用で入社しました瀬尾良樹と言います。あなたは────」

「どうも、《《美帆の彼氏》》の津川です」

 のっけから戦闘モード全開の自己紹介。名前を名乗らなかったのは癪だからなのか。「美帆の彼氏」をやたら強調して言ったように聞こえたが気のせいだろうか。

 だが、良樹は気付いていないのか気が付いているのか、いつもの明るい調子で驚いた。

「えっ美帆彼氏いたのか!?」

「あのねぇ、いたらおかしい?」

「悪い悪い。そう見えなくて」

「美帆、店の予約時間に遅れるから」

 またしても文也はぶっきらぼうな口調で言い放った。美帆は「ごめんね」と言って良樹に軽く頭を下げた。

「じゃあ、お疲れ様」

 別れの挨拶をすると共に文也の手が美帆の手を掴む。ズンズン前に進んで、まるで早くこの場から立ち去りたいみたいだ。

「文也さん、お店予約って────」

「あれ、誰やねん」

 前を向いたまま文也が言った。

「なんであんなに仲良いねん。ほんまにアイツ中途採用者なん?」

「あの人は大学の先輩なんです。この間までドイツで仕事してて、たまたまうちを受けたんですよ。本当です」

 文也はきっと誤解してしまったのだろう。見たことない男が一緒に話していて警戒したのかもしれない。美帆は誤解を解こうと必死に説得した。

 しばらくして、文也の勇足がぴたりと止まった。振り返り、ムッとしたままの表情を美帆に向ける。

「……ごめん。大人気なかった」

「私こそごめんなさい。誤解させるようなことしてしまって……」

「なんか仲良さそうやから、腹立ってん。会社で美帆とあんなふうにしてる奴見たことなかったし……」

「それは────」

 良樹が元彼だという話はすべきだろうか。いや、しない方がいい。聞いたらきっと文也は気にしてしまう。

 良樹との関係はとっくの昔に終わった。今はただの友達だ。未練も恋愛感情も微塵もない。

「……あかんわ。俺、美帆が心配してるやろうと思って誘ったけど、俺の方がヤキモチ妬いてたら世話ないわな」

「文也さんもヤキモチとか妬くんですね」

「妬くやろ。好きやねんから」

 やっぱり、文也といると安心する。嫌な感情や暗い気持ちも一緒にいたらどこかへ消えてしまう。

 良樹といるのは楽しいが、文也とは違う。文也といる時は、ハッキリ自分が恋愛しているんだなと感じた。

「安心してください。私の彼氏は一人しかいませんから」

 安心させるように文也の手を握り返す。

 仮にこの先誰かに言い寄られても、気持ちが離れない限りはずっと文也のことを好きでいたい。美帆はそう思った。
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