とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
翌日会社に行くと、ひどい顔をしていると沙織達に言われた。
それもそうだ。寝るまでずっと泣いていたのだから。
恋人が浮気していていて平気な女性などいるだろうか。美帆は昨夜、何度も電話をかけようか迷った。
だが、二人で一緒にいると思うと辛くてとてもじゃないがそんなことはできなかった。
目の腫れぼったさはメイクで隠したり揉んだりしてなんとかマシにはなったが、元に戻るには少し時間がかかる。仕事はなんとか集中しようとしたものの、人と喋っていないと思い出してばかりでなかなか捗らなかった。
────昨日から全然連絡ない。
美帆はスマホの通知がないことを確認して、ため息をついた。
文也は忙しい時、ほとんど連絡がなくなる。いつもなら仕事だろうと流している。だが、あんなシーンを見た後では────。
考えたところで仕方のないことだ。嫌なことは考えてもどうしようもない。
美帆は終業の時刻になったとともに慌ただしく仕事を終わらせた。
こんな日はドラマを見て嫌なことを忘れよう。お酒も飲んで、美味しいものを食べれば気分も紛れる。はずだ。
けれど、ふと考える。取引先の社員だから、役員達とコネクションがあるから気を使っていただけで、文也はもともと騙す目的で自分に近付いた。
それはのちに恋愛感情になったと言うが、文也だって気兼ねせず楽に付き合える相手の方がいいだろう。こんな素直じゃない年上の女より、年下で愛嬌がある女性の方がずっと魅力的だ。
────お高くとまってるつもりなんてないのに。やっぱり文也さんも他の男の人と同じなのかな。
憂鬱な気分でエントランスの自動扉を潜ると、文也────ではなく、良樹が向こうから歩いてきた。
良樹は営業から帰って来たところなのだろうか。そんなふうに見える。
「美帆、これから帰りか? ────どうしたんだ?」
「何が?」
「なんか顔色悪いぞ。いつもより元気なさそうだし……何かあったのか?」
十年近く離れていたのに良樹は分かるのだろうか。いや、これだけ目が腫れていれば誰だってわかるかもしれない。
だが、元カレの良樹にそんなことを言われると、なんだか余計に悲しくなった。
気が緩むと泣いてしまいそうだ。こんなことで泣くなんて情けないのに、どうにもならなかった。
「何かあったんだな? ……ちょっと待っててくれないか。俺も今帰って来たばかりなんだ。すぐ戻ってくるからこのあたりにいてくれ」
そう言うと、良樹は小走りで会社の中へと消えた。
十分ほど待つと、良樹が出て来た。
「お待たせ。こんなところで話すのもなんだし、どこか店でも入ろう」
良樹は駅の近くにあったチェーン店の居酒屋に入った。まだ早い時間だから店の中は割と静かな方だが、居酒屋らしくBMGがうるさい。
店はほとんどが個室だった。個室といっても横の部屋との間に壁があるだけで、廊下と小部屋の境は間仕切りがない。
「懐かしいな〜。ほら、大学の時によく行っただろ?」
「そうだね。なんだか懐かしいね」
「とりあえず、なんか飲もう。俺は生ビール」
「じゃあ、私もそれで」
テーブルの上に置かれたタブレットで注文すると、五分と経たないうちにドリンクが出てきた。二人は軽くジョッキをあげ乾杯した。
「仕事、忙しかったんじゃないの?」
「別にいいよ。明日の朝やっても変わらないから」
「ごめんね。迷惑かけちゃったみたいで……」
「気にしないでくれ。それより、何があったんだ? 美帆が泣くなんてよっぽどのことだろ?」
確かに、泣くのはドラマか映画を見た時ぐらいだ。普段泣きたいほど悲しくなることは滅多とない。
「……実は、彼氏が浮気しているかもしれなくて」
《《かもしれない》》と言ったのは、自分が惨めになるからだろうか。それともまだ信じたい気持ちがあるからなのか。
あんなシーンを見てもまだ嫌いになれない。嫌いになるには文也のことを好きになりすぎた。
「それ、本当なのか?」
良樹は確かめるように言った。
「会社から二人で出てくるところを見たの」
「会社から二人で? 同じ会社の人なのか?」
「彼は社長で、相手は秘書なの」
良樹はうーん、と悩むような仕草をした。疑わしきは罰せずだ。ただの勘違いかもしれない。だが、いろいろなことが重なりすぎて信じられない。
「待ってくれ。美帆の彼氏を庇うわけじゃないけど、もしかしたら仕事に行く予定だったかもしれないだろ」
「……うん」
「彼氏に聞いてみたらどうだ?」
「そんなの、浮気してて『はい、してます』なんて言うわけないじゃない。それに私の方が年上なんだよ。そんな大人気ないこと言えないよ」
「恋人なんだから大人とか子供とかないだろ。お互い尊重しあってないと成り立たない」
「わかってるけど……」
「まあ、美帆も確信があるからそう思うんだろう。うーん、じゃあ美帆はどうしたいんだ? その彼氏と別れたいのか?」
別れたいのだろうか。いや、そうではない。そんなことは全く考えていない。
だが、この中途半端な関係が嫌なだけだ。浮気するなら別れた方がいいし、はっきりさせて欲しかった。文也に欺かれていると思うことが辛いのだ。
「……別れたいわけじゃない。けど、私のことどうでもいいなら、早く別れてほしい」
「前会った時の反応見る限り、嫌いになったとかどうでもいいとかそんなふうには見えないけど……こう言うとなんだけど、割と子供っぽいのはあっちに見えたぞ」
「それは……そうだね」
「そうだな。美帆もヤキモチ妬かせてやったらいいんじゃないのか?」
「……どうやって?」
「会社の人と仲良くするとか、ちょっとそっけなくてしてみるんだよ。ほら、逃げるものほど追いたくなるって言うだろ」
「そんなの引っかかるかなぁ」
「少なくとも、美帆のこと本当に好きなら引っかかるだろ」
確かに妙案だ、と美帆は納得した。こんな時ぐらい主導権を握らないと文也に流されてばかりになってしまう。
その作戦はちょっと罪悪感が湧くが、文也もよくよく考えれば同じようなことをしているのだから責められる言われはない。
「良樹って本当にいい奴だよね。でも、あんまり人が良すぎると大変になるよ」
「そうなんだよ。前の彼女にも言われた。『あなたはいい人すぎる』だって、ていのいい振り文句だと思わないか?」
「多分それは、本当に言ってるんだと思うけど」
それもそうだ。寝るまでずっと泣いていたのだから。
恋人が浮気していていて平気な女性などいるだろうか。美帆は昨夜、何度も電話をかけようか迷った。
だが、二人で一緒にいると思うと辛くてとてもじゃないがそんなことはできなかった。
目の腫れぼったさはメイクで隠したり揉んだりしてなんとかマシにはなったが、元に戻るには少し時間がかかる。仕事はなんとか集中しようとしたものの、人と喋っていないと思い出してばかりでなかなか捗らなかった。
────昨日から全然連絡ない。
美帆はスマホの通知がないことを確認して、ため息をついた。
文也は忙しい時、ほとんど連絡がなくなる。いつもなら仕事だろうと流している。だが、あんなシーンを見た後では────。
考えたところで仕方のないことだ。嫌なことは考えてもどうしようもない。
美帆は終業の時刻になったとともに慌ただしく仕事を終わらせた。
こんな日はドラマを見て嫌なことを忘れよう。お酒も飲んで、美味しいものを食べれば気分も紛れる。はずだ。
けれど、ふと考える。取引先の社員だから、役員達とコネクションがあるから気を使っていただけで、文也はもともと騙す目的で自分に近付いた。
それはのちに恋愛感情になったと言うが、文也だって気兼ねせず楽に付き合える相手の方がいいだろう。こんな素直じゃない年上の女より、年下で愛嬌がある女性の方がずっと魅力的だ。
────お高くとまってるつもりなんてないのに。やっぱり文也さんも他の男の人と同じなのかな。
憂鬱な気分でエントランスの自動扉を潜ると、文也────ではなく、良樹が向こうから歩いてきた。
良樹は営業から帰って来たところなのだろうか。そんなふうに見える。
「美帆、これから帰りか? ────どうしたんだ?」
「何が?」
「なんか顔色悪いぞ。いつもより元気なさそうだし……何かあったのか?」
十年近く離れていたのに良樹は分かるのだろうか。いや、これだけ目が腫れていれば誰だってわかるかもしれない。
だが、元カレの良樹にそんなことを言われると、なんだか余計に悲しくなった。
気が緩むと泣いてしまいそうだ。こんなことで泣くなんて情けないのに、どうにもならなかった。
「何かあったんだな? ……ちょっと待っててくれないか。俺も今帰って来たばかりなんだ。すぐ戻ってくるからこのあたりにいてくれ」
そう言うと、良樹は小走りで会社の中へと消えた。
十分ほど待つと、良樹が出て来た。
「お待たせ。こんなところで話すのもなんだし、どこか店でも入ろう」
良樹は駅の近くにあったチェーン店の居酒屋に入った。まだ早い時間だから店の中は割と静かな方だが、居酒屋らしくBMGがうるさい。
店はほとんどが個室だった。個室といっても横の部屋との間に壁があるだけで、廊下と小部屋の境は間仕切りがない。
「懐かしいな〜。ほら、大学の時によく行っただろ?」
「そうだね。なんだか懐かしいね」
「とりあえず、なんか飲もう。俺は生ビール」
「じゃあ、私もそれで」
テーブルの上に置かれたタブレットで注文すると、五分と経たないうちにドリンクが出てきた。二人は軽くジョッキをあげ乾杯した。
「仕事、忙しかったんじゃないの?」
「別にいいよ。明日の朝やっても変わらないから」
「ごめんね。迷惑かけちゃったみたいで……」
「気にしないでくれ。それより、何があったんだ? 美帆が泣くなんてよっぽどのことだろ?」
確かに、泣くのはドラマか映画を見た時ぐらいだ。普段泣きたいほど悲しくなることは滅多とない。
「……実は、彼氏が浮気しているかもしれなくて」
《《かもしれない》》と言ったのは、自分が惨めになるからだろうか。それともまだ信じたい気持ちがあるからなのか。
あんなシーンを見てもまだ嫌いになれない。嫌いになるには文也のことを好きになりすぎた。
「それ、本当なのか?」
良樹は確かめるように言った。
「会社から二人で出てくるところを見たの」
「会社から二人で? 同じ会社の人なのか?」
「彼は社長で、相手は秘書なの」
良樹はうーん、と悩むような仕草をした。疑わしきは罰せずだ。ただの勘違いかもしれない。だが、いろいろなことが重なりすぎて信じられない。
「待ってくれ。美帆の彼氏を庇うわけじゃないけど、もしかしたら仕事に行く予定だったかもしれないだろ」
「……うん」
「彼氏に聞いてみたらどうだ?」
「そんなの、浮気してて『はい、してます』なんて言うわけないじゃない。それに私の方が年上なんだよ。そんな大人気ないこと言えないよ」
「恋人なんだから大人とか子供とかないだろ。お互い尊重しあってないと成り立たない」
「わかってるけど……」
「まあ、美帆も確信があるからそう思うんだろう。うーん、じゃあ美帆はどうしたいんだ? その彼氏と別れたいのか?」
別れたいのだろうか。いや、そうではない。そんなことは全く考えていない。
だが、この中途半端な関係が嫌なだけだ。浮気するなら別れた方がいいし、はっきりさせて欲しかった。文也に欺かれていると思うことが辛いのだ。
「……別れたいわけじゃない。けど、私のことどうでもいいなら、早く別れてほしい」
「前会った時の反応見る限り、嫌いになったとかどうでもいいとかそんなふうには見えないけど……こう言うとなんだけど、割と子供っぽいのはあっちに見えたぞ」
「それは……そうだね」
「そうだな。美帆もヤキモチ妬かせてやったらいいんじゃないのか?」
「……どうやって?」
「会社の人と仲良くするとか、ちょっとそっけなくてしてみるんだよ。ほら、逃げるものほど追いたくなるって言うだろ」
「そんなの引っかかるかなぁ」
「少なくとも、美帆のこと本当に好きなら引っかかるだろ」
確かに妙案だ、と美帆は納得した。こんな時ぐらい主導権を握らないと文也に流されてばかりになってしまう。
その作戦はちょっと罪悪感が湧くが、文也もよくよく考えれば同じようなことをしているのだから責められる言われはない。
「良樹って本当にいい奴だよね。でも、あんまり人が良すぎると大変になるよ」
「そうなんだよ。前の彼女にも言われた。『あなたはいい人すぎる』だって、ていのいい振り文句だと思わないか?」
「多分それは、本当に言ってるんだと思うけど」