とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
第27話 ピリオド
「ご挨拶申し上げます、わたくし津川商事社長秘書の丸井と申します」
目の前の男は名刺を差し出した。美帆は恐る恐る名刺を受け取った。名刺には確かに、『津川商事株式会社 秘書 丸井正和』と書かれている。
だが、そんな人物が一体なんの用事だろうか。
「杉野様に大事なお話がございます。お急ぎのところ申し訳ございませんが、お話を聞いていただけないでしょうか」
「……分かりました」
「お時間は取らせません。では、こちらへ」
丸井は会社のすこし歩いた先にあるホテルに入った。ここらでは大きな、ビジネルマンが出張で多用する大きめのホテルだ。
丸井はロビーに入ると、一階にあるラウンジに入った。スタッフと話し、近くの席に腰掛ける。
美帆も席についたものの、どんな話をされるか分からず身構えた。
────なんで津川商事の秘書が私を訪ねてくるの? 文也さんのこと?
丸井は席に着くと、ビシッと姿勢を正した。とても和やかに話ができる雰囲気ではない。自然と美帆も緊張した。
「お話というのは他でもございません。文也様のことでございます」
「文也さんの……?」
「杉野様は文也様とお付き合いされていると伺っております」
やはり知っているらしい。元々、藤宮コーポレーションにスパイとして入るよう提案したのは津川社長だと言っていた。その後文也の話によると、美帆の存在は勝手に調べられていたそうだ。
津川商事の次男坊だ。どんな女性と付き合うか気になるのが親心というものだろうか。
「それで……私に一体なんの用事ですか」
「単刀直入に申し上げますと、文也様と別れていただきたいのです」
丸井は淡々と冷静に言った。まるで業務連絡のように。
だが、美帆は冷静にはなれなかった。
突然現れたと思ったら別れてくれだなんて、あまりにも失礼ではないだろうか。いや、今に始まった話ではないが……。
「もちろん、タダでとは申しません。杉野様には曲がりなりにも文也様のお世話をして頂いたわけですから、感謝の意をお伝えするようにと、社長から仰せつかっております」
丸井はビジネス鞄から何か取り出した。横長の封筒だ。その中からまた一枚の紙切れを取り出すと、テーブルの上に美帆に見えるように置いた。
「どうぞ、心ばかりですが」
差し出されたのは紙切れなどではなかった。小切手だ。やたらゼロが多いと思って数えた。一、十、百、千────一千万だ。
振出人の署名欄には『津川商事株式会社 津川雅彦』の文字と印鑑。間違いない。正式な小切手だ。
美帆はこの小切手の意味を考えた。単に感謝を伝えるため? そんなわけがない、見ず知らずの人間に一千万も渡すわけがない。これは手切金だ。
「……っこんなもの受け取れません」
「なぜですか?」
「そもそも……どうして文也さんと別れなければならないんですか。いきなり現れて別れてください、なんて……失礼です」
「それはこちらも承知しております。しかし、文也様と別れる理由がお分かりにならないほど、あなたは愚かではないでしょう」
「……どういうことですか」
「文也様が津川商事の社長、雅彦様の御子息であることはご存知のはずです。でしたら、ご自身が文也様に不釣り合いであることもお分かりなのでは?」
────だから、一千万渡しておけば諦めて別れるだろうと?
美帆は憤りを覚えた。身勝手にもほどがある。息子のことを手駒のように扱っていたくせに、自分の身が危なくなれば連絡を絶って、放置して。
挙げ句の果てに息子と不釣り合いだから別れろ? どうかしている。
怒っていることは顔を見れば分かるだろうに、丸井はまるで興味がなさそうだ。ロボットみたいな男だ、と思った。
恐らく津川社長の命令でここまで来たのだろう。ということは、津川社長が文也との交際に反対しているのだ。
美帆の父親はホテルのフロントマンだ。母は専業主婦。津川商事のような大金持ちではない。釣り合っているかと言われれば釣り合っていないだろう。
だが、美帆はそれでもやっていけると思った。文也は家を出て長い。それほど浮世離れしている感じではない。だがそんなことは問題ではないらしい。
「確かに、私は釣り合っていないかもしれません。けれど、だからと言って別れさせるのは違うと思います」
「文也様には然るべきお相手をあてがう予定です。ですから、正直なところを申し上げればあなたの存在が公になると困るのです」
「然るべき相手って……お見合いするってことですか」
「そうです。ある程度候補者は絞っておりますが、皆様錚々たる家柄のお嬢様ばかりです」
あなたがそこに入る余地などない。丸井はそう言っているのだろうか。
まるでドラマのような展開だ。だが、ドラマのような楽しさは微塵もない。ただただ腹立たしくて悔しかった。
彼らには人情とかそういった人間らしい感情はないのだろうか。文也の気持ちはどうなるのだろう。
「文也さんはそのことを知っているんですか」
「それは私には分かりかねます。社長の方からお伝えてしているかもしれませんが」
文也は知っていたのだろうか。だから突然結婚の話をしたのか。
いや、文也ならそんなことはしない。もし知ったのならあんな態度は取らないはずだ。恐らく文也はまだ何も知らされていないのだろう。
自分の知らないところで見合いの話が進んでいるなんて聞いたら、文也は黙っていない。
「本人に言わずに勝手に進めるなんて……」
「私はあなたの意見を聞いたのではありません。これは社長の命令です」
丸井はピシャリと言い放つ。こちらの意見などまるで聞く気がないらしい。そもそもこれは話し合いではない。命令。ただの結果報告だ。
だが、だとしても美帆はこの小切手を受けとる気もなければ、文也と別れる気にもなれなかった。
断ったとしても津川社長は大きく動くことはできないだろう。現在津川フロンティアは藤宮グループのみと契約を絞っている。そしてその下で働く自分を処罰することなどできやしないのだ。
「お断りします。私は文也さんの家族になるって決めたんです。こんなもの、受け取れません」
「では、文也様から本物の家族を切り離すと?」
丸井の目が一層厳しくなった。
「社長が文也様に厳しくなさっていたのは事実です。ですがそれは文也様のことを案じていたからこそ。それをあなたは個人的な感情で否定なさるのですか」
「それは……」
「お付き合いなさっていたのだから多少情が湧くのは理解出来ます。しかし家族間の問題にまで他人である杉野様が入ることはできません。文也様は現在家を出ておいでですが、見合いの状況によっては津川家に戻しても良いと社長からお言葉を頂いております」
《《戻してもいい》》などと、やたら上から目線な言葉は気になるが、否定は出来なかった。
仲違いしたことはともかく文也と津川社長は親子だ。丸井の言うように、もし文也と自分が結婚することになったら文也は実家を遠ざけるはずだ。
だが、親子の縁が戻れば文也も今のように寂しい思いをせずに済むのではないだろうか。曲がりなりにも親子なのだ。いないよりはいた方がいい。
「杉野様も色々考えることがおありでしょうから、この辺りで失礼いたします。もし決意が固まりましたら私の携帯番号に連絡を────」
「……結構です。この小切手は持って帰ってください」
「……承知しました。また必要があれば仰って下さい。なんでしたら杉野様のお相手を用意することも可能です。いいお返事を待っています」
丸井は小切手を鞄の中にしまうと、席を立った。美帆は席に座ったまま、しばらく呆然とした。
────あんなの、ただの脅しじゃない。どこまで失礼な人なの?
一千万も使って息子の恋人を消そうなんて普通の人間の考えることではない。おまけに文也に言わずに見合いの話を進めるなんて、文也が聞いたら激怒するだろう。
小切手を断ったように、こんな話は断るべきだ────。そう思うものの、はっきり断ることが出来なかった。
本当に親子の縁が切れてしまったら、文也の家族が一人もいなくなってしまう。いくら自分が家族になると言っても、所詮は他人だ。何かあった時はどうなるか分からない。
本当に文也と結婚することが正解なのか分からなくなった。
目の前の男は名刺を差し出した。美帆は恐る恐る名刺を受け取った。名刺には確かに、『津川商事株式会社 秘書 丸井正和』と書かれている。
だが、そんな人物が一体なんの用事だろうか。
「杉野様に大事なお話がございます。お急ぎのところ申し訳ございませんが、お話を聞いていただけないでしょうか」
「……分かりました」
「お時間は取らせません。では、こちらへ」
丸井は会社のすこし歩いた先にあるホテルに入った。ここらでは大きな、ビジネルマンが出張で多用する大きめのホテルだ。
丸井はロビーに入ると、一階にあるラウンジに入った。スタッフと話し、近くの席に腰掛ける。
美帆も席についたものの、どんな話をされるか分からず身構えた。
────なんで津川商事の秘書が私を訪ねてくるの? 文也さんのこと?
丸井は席に着くと、ビシッと姿勢を正した。とても和やかに話ができる雰囲気ではない。自然と美帆も緊張した。
「お話というのは他でもございません。文也様のことでございます」
「文也さんの……?」
「杉野様は文也様とお付き合いされていると伺っております」
やはり知っているらしい。元々、藤宮コーポレーションにスパイとして入るよう提案したのは津川社長だと言っていた。その後文也の話によると、美帆の存在は勝手に調べられていたそうだ。
津川商事の次男坊だ。どんな女性と付き合うか気になるのが親心というものだろうか。
「それで……私に一体なんの用事ですか」
「単刀直入に申し上げますと、文也様と別れていただきたいのです」
丸井は淡々と冷静に言った。まるで業務連絡のように。
だが、美帆は冷静にはなれなかった。
突然現れたと思ったら別れてくれだなんて、あまりにも失礼ではないだろうか。いや、今に始まった話ではないが……。
「もちろん、タダでとは申しません。杉野様には曲がりなりにも文也様のお世話をして頂いたわけですから、感謝の意をお伝えするようにと、社長から仰せつかっております」
丸井はビジネス鞄から何か取り出した。横長の封筒だ。その中からまた一枚の紙切れを取り出すと、テーブルの上に美帆に見えるように置いた。
「どうぞ、心ばかりですが」
差し出されたのは紙切れなどではなかった。小切手だ。やたらゼロが多いと思って数えた。一、十、百、千────一千万だ。
振出人の署名欄には『津川商事株式会社 津川雅彦』の文字と印鑑。間違いない。正式な小切手だ。
美帆はこの小切手の意味を考えた。単に感謝を伝えるため? そんなわけがない、見ず知らずの人間に一千万も渡すわけがない。これは手切金だ。
「……っこんなもの受け取れません」
「なぜですか?」
「そもそも……どうして文也さんと別れなければならないんですか。いきなり現れて別れてください、なんて……失礼です」
「それはこちらも承知しております。しかし、文也様と別れる理由がお分かりにならないほど、あなたは愚かではないでしょう」
「……どういうことですか」
「文也様が津川商事の社長、雅彦様の御子息であることはご存知のはずです。でしたら、ご自身が文也様に不釣り合いであることもお分かりなのでは?」
────だから、一千万渡しておけば諦めて別れるだろうと?
美帆は憤りを覚えた。身勝手にもほどがある。息子のことを手駒のように扱っていたくせに、自分の身が危なくなれば連絡を絶って、放置して。
挙げ句の果てに息子と不釣り合いだから別れろ? どうかしている。
怒っていることは顔を見れば分かるだろうに、丸井はまるで興味がなさそうだ。ロボットみたいな男だ、と思った。
恐らく津川社長の命令でここまで来たのだろう。ということは、津川社長が文也との交際に反対しているのだ。
美帆の父親はホテルのフロントマンだ。母は専業主婦。津川商事のような大金持ちではない。釣り合っているかと言われれば釣り合っていないだろう。
だが、美帆はそれでもやっていけると思った。文也は家を出て長い。それほど浮世離れしている感じではない。だがそんなことは問題ではないらしい。
「確かに、私は釣り合っていないかもしれません。けれど、だからと言って別れさせるのは違うと思います」
「文也様には然るべきお相手をあてがう予定です。ですから、正直なところを申し上げればあなたの存在が公になると困るのです」
「然るべき相手って……お見合いするってことですか」
「そうです。ある程度候補者は絞っておりますが、皆様錚々たる家柄のお嬢様ばかりです」
あなたがそこに入る余地などない。丸井はそう言っているのだろうか。
まるでドラマのような展開だ。だが、ドラマのような楽しさは微塵もない。ただただ腹立たしくて悔しかった。
彼らには人情とかそういった人間らしい感情はないのだろうか。文也の気持ちはどうなるのだろう。
「文也さんはそのことを知っているんですか」
「それは私には分かりかねます。社長の方からお伝えてしているかもしれませんが」
文也は知っていたのだろうか。だから突然結婚の話をしたのか。
いや、文也ならそんなことはしない。もし知ったのならあんな態度は取らないはずだ。恐らく文也はまだ何も知らされていないのだろう。
自分の知らないところで見合いの話が進んでいるなんて聞いたら、文也は黙っていない。
「本人に言わずに勝手に進めるなんて……」
「私はあなたの意見を聞いたのではありません。これは社長の命令です」
丸井はピシャリと言い放つ。こちらの意見などまるで聞く気がないらしい。そもそもこれは話し合いではない。命令。ただの結果報告だ。
だが、だとしても美帆はこの小切手を受けとる気もなければ、文也と別れる気にもなれなかった。
断ったとしても津川社長は大きく動くことはできないだろう。現在津川フロンティアは藤宮グループのみと契約を絞っている。そしてその下で働く自分を処罰することなどできやしないのだ。
「お断りします。私は文也さんの家族になるって決めたんです。こんなもの、受け取れません」
「では、文也様から本物の家族を切り離すと?」
丸井の目が一層厳しくなった。
「社長が文也様に厳しくなさっていたのは事実です。ですがそれは文也様のことを案じていたからこそ。それをあなたは個人的な感情で否定なさるのですか」
「それは……」
「お付き合いなさっていたのだから多少情が湧くのは理解出来ます。しかし家族間の問題にまで他人である杉野様が入ることはできません。文也様は現在家を出ておいでですが、見合いの状況によっては津川家に戻しても良いと社長からお言葉を頂いております」
《《戻してもいい》》などと、やたら上から目線な言葉は気になるが、否定は出来なかった。
仲違いしたことはともかく文也と津川社長は親子だ。丸井の言うように、もし文也と自分が結婚することになったら文也は実家を遠ざけるはずだ。
だが、親子の縁が戻れば文也も今のように寂しい思いをせずに済むのではないだろうか。曲がりなりにも親子なのだ。いないよりはいた方がいい。
「杉野様も色々考えることがおありでしょうから、この辺りで失礼いたします。もし決意が固まりましたら私の携帯番号に連絡を────」
「……結構です。この小切手は持って帰ってください」
「……承知しました。また必要があれば仰って下さい。なんでしたら杉野様のお相手を用意することも可能です。いいお返事を待っています」
丸井は小切手を鞄の中にしまうと、席を立った。美帆は席に座ったまま、しばらく呆然とした。
────あんなの、ただの脅しじゃない。どこまで失礼な人なの?
一千万も使って息子の恋人を消そうなんて普通の人間の考えることではない。おまけに文也に言わずに見合いの話を進めるなんて、文也が聞いたら激怒するだろう。
小切手を断ったように、こんな話は断るべきだ────。そう思うものの、はっきり断ることが出来なかった。
本当に親子の縁が切れてしまったら、文也の家族が一人もいなくなってしまう。いくら自分が家族になると言っても、所詮は他人だ。何かあった時はどうなるか分からない。
本当に文也と結婚することが正解なのか分からなくなった。