とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 美帆は重い足取りで帰路を辿った。一週間のみの仮の自宅、文也の家へ向かう。

 頭の中を本堂常務と丸井の言葉がぐるぐるしていた。

 ややこしい問題だ。とても一人では解決できそうになかった。だが、文也に言ってしまえば状況は余計に悪くなる。どうしたらいいのか分からないまま悪戯に時が過ぎてゆく。

 文也の自宅に着くと、案の定文也はまだ帰宅していなかった。殺風景な玄関がなんだか冷たくて、誰もいないのに「ただいま」と言う。

 この部屋で暮らし始めてまだ数日。ある程度は慣れてきたが、こんな時に殺風景なこの景色を見ると心が冷え込むようだった。

 美帆はいつものくせでテレビをつけた。そうすると寂しい部屋も少しは賑やかになったが、なんとなく違和感を覚える。テーブルにテレビ。買い足した家具が浮いて見えた。

 色が浮いているわけではない。部屋の家具は黒で統一されていた。デザインもそれほど奇抜なものではない。だが、何かが変なのだ。

 ────文也さんの実家も、こんな感じなのかな。

 なんとなく想像してみた。家族四人。家は大きいのかもしれない。けれど、それ以上想像は出来なかった。

 お金持ちなら大豪邸に住んでいたのだろう。キラキラしたシャンデリアだとか、赤絨毯だとか、大きな階段、広い部屋、食事も豪華でお手伝いさんもいて────今までドラマで見てきた世界だ。

 だが、文也から聞いた話にはそんなものは一つもなかった。いや、文也は話したことがなかった。父親が津川商事の社長で、とても厳しい。家族と仲が悪くて家には近づきたくない。それだけだ。

 文也が嫌がることをあえて聞いたりはしない。だから今まで知らなかった。

 もしかしたら、文也の実家はこんな状態なのかもしれない。《《何もない》》。最低限のものだけあって、生きることはできる状態。まるで牢獄みたいだ。

 美帆の実家は真逆だった。いつもテレビはつけっぱなしで、誰かしらがテレビの前にいる。台所には母親、ダイビングテーブルには父親。兄弟は漫画を読んでねっころがっている。ごちゃごちゃして賑やかしい。それで一つの状態だった。家族が一つの空間にいた。

 ────ああ、そうか。

 美帆はなんだか納得してしまった。文也は家具や部屋に興味がないわけではないのだ。ただ、そういう生活をしてこなかったから知らないだけだ。

 家族と仲良くテレビを見たり、テーブルを囲んで一緒に食事したり、そういったものがなかったのだ。

『家族なんていらんと思っててん』。いつか文也はそう言った。

 だが、《《いらない》》のではなく、《《いない》》のと同じだったのではないだろうか。いてもいなくても変わらない。文也にとって家族は縛り付けるもので、それ以上の存在ではなかった。

 そんな文也も家族が欲しいと思った。いや、本当はずっと欲しかったのに、諦めていただけかもしれない。だから反発して家を出て、一人暮らしを始めた。望むものの近くにいても望んでいるものは手に入らないから。

「文也さん……」

 少し思った。文也が家族だったら楽しいかもしれない、と。だが、文也が自分に望んでいるものはとても大きなものだ。思っていた以上に、きっと。

 文也に家族を捨てろなんて言えない。文也が望んでいるものに自分がなれるかも分からない。

 家族になりたいなど、簡単に願っていいことではなかったのかもしれない。
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