とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 津川文也、二十九歳。人生の絶頂期はいつかと聞かれたら、恐らく「今から」と答えるだろう。

 一時は会社が不安定な状態になり欠伸する暇もなかったほどだが、どうにかこうにか生きていける状態にまで回復した。

 仕事も恋愛も波に乗った状態。言うことなしだ。

 目下の目標は美帆が結婚にオーケーしてくれることだが、現状問題なく暮らしているしそれはなんとでもなるだろう。

 デスクに向かっていた文也はふっと笑みをこぼした。

 今日はおそらく定時で上がれる。少しでも早く帰れば多少は家事も出来るだろうか。本来なら洗濯が面倒な時はクリーニングに出していたし、料理も一人だから面倒がって外で食べていた。だが、家族がいるとそうはいかない。

 とはいえ、一人暮らし用の狭いキッチンに二人も経つと邪魔かもしれないし、美帆の分も洗濯するとなんだかややこしそうだ。だが、何かしておかないと、ダメ夫認定されてしまう。

 そんな妄想をしながらまた笑みが溢れる。美帆との生活は楽しかった。

 美帆がいると部屋の中が賑やかだ。美帆はいつも楽しそうにしているし、テレビを見て表情を変えている彼女を見るのは飽きない。隣で眠っている姿を見ると安心した。

 結婚しようと提案したものの、ここまでいいものだとは想像はしていなかった。自分にとって家族とは、自分の都合で用事を押し付けてくるだけの人間に過ぎなかった。

 湯水のように金を使って部屋を物だらけにする母親は家庭的とは言い難く、世話好きで家族のことは何でもしようとしたが、ある程度成長した男にとっては押し付けがましかった。

 そんな母親に育てられた兄はいつも感情を失ったロボットのように一日中勉強していて、家族である自分にかける言葉といえば「勉強しないと落ちこぼれるぞ」ばかりだった。兄はすでに後継(ロボット)として出来上がっていた。

 そして家長、雅彦は独裁的で、自分が敷いたレールから家族が逸れようものなら容赦しなかった。

 あの家庭において、家族というのは駒であり、一つのパズルだ。薄っぺらい津川家を完成させるための一つの部品に過ぎない。だから人間性とかは正直どうでもいいことで、自分の役割を全うすることが存在証明だった。

 全ての家庭がそうでないことは知っていた。街を歩く親子連れはもっと楽しそうな顔をしているし、子供はイキイキしている。あの子供は、感情を殺すことを強いられることはないのだと、何度も思った。

 だから今は家を出てよかったと思っている。あの家にいたら本当に人間でなくなってしまいそうだったし、どうせロクな人生にならなかっただろう。



 仕事を終わらせて、駅の地下にあるスーパーに寄った。買い物は美帆がしてくれているようだが、任せててばかりではいけない。肉と野菜、美帆がテレビを見ながらつまめそうな菓子を適当に買った。

 自宅に帰り、部屋の奥にいる美帆に声を掛ける。

「美帆、ただいま」

 そうすると、奥から美帆が現れる。

「お帰りなさい」

「今日はいつもより早く帰れてんけどな。やっぱ美帆の方が早いわ」

「終業時間が違うんだから仕方ないですよ。買い物して下さったんですか?」

「そりゃ、美帆ばっかりに重いもん持たせるわけにはいかんし。俺だって買い物ぐらいできるで」

「けど、買い過ぎ厳禁ですよ。私がここにいるのあとちょっとなんですから」

「ずっといたらいいやん」

 こういう言葉を使うと、美帆はすぐ怒る。怒るというか、照れているだけなのだが、「もう」、とか「こら」、とか言って恥ずかしいのを誤魔化そうとする。そういう反応も楽しんでいた。

「……?」

 だが、待っていた言葉は帰ってこなかった。美帆はなんだか戸惑ったような顔をしていた。

「ちょっと、考えさせてくれませんか。まだ……そんなすぐに決められないっていうか……」

 結婚を急かされたと思ったのだろうか。そんなつもりはないが、そう聞こえたのかもしれない。

「結論求めてるわけちゃうから、そんなに真剣に考えんくてもええよ。俺は待ってるし、美帆の好きなようにしたらええから」

「……はい」

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