とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
昼時、女子社員達がテーブルを囲んで盛り上がっていた。
仕事を切り上げて昼食を食べに行こうと思っていた文也は、盛り上がっている輪の中を覗き込んだ。どうやら雑誌を見ていたらしい。
「なんや、えらい盛り上がってんな」
「あ、社長。それが、中村さん結婚するんですって」
「そうなん? よかったやん」
テーブルの上には広告でよく見かける結婚情報誌か置かれている。これから式場でも選ぶのだろう。
だが、一体何ページあるのか、雑誌とは思えない厚みだ。
「にしても、分厚すぎへんか。タウンページ並みやで」
「こんなのまだ少ないほうですよ。色々見なきゃいけないことたくさんあるんです。そういう社長は結婚しないんですか?」
「しようとしてんねんけどな。オッケーもらえてないねん」
「プロポーズは?」
「プロポーズ────」
あれはプロポーズになるのだろうか。結婚したい意思は伝えたから、プロポーズのはずだ。
「してないんですか?」女性社員達は揃って眉をつり上げた。
「してるんちゃうか」
「してるんちゃうかって……そんな不確かなのダメですよ。ちゃんと指輪渡してハッキリ言わないと! 回りくどいのはだめです!」
「……そうなん?」
「そりゃそうですよ。一生に一度なんですよ。適当にされたら結婚する気も失せます」
文也はようやく自分の過失に気がついた。そうか、どうりで美帆の反応が悪かったわけだ。指輪も何も渡さずに意思だけ伝えてもいけないのだ。
正直あの時は様子窺いするだけのつもりだったが、ああいうものは何度も言うとパンチが弱まって効果が薄くなる。もっと言葉を選ぶべきだった。
どうもこういうことに頭が回らない。これで断られたら最悪だ。
「ちょっとその雑誌見せてもらってええ?」
「社長、これは結婚が決まった人が見るものですよ」
「ええねん。女心分かってないから勉強させてもらうわ」
文也はテーブルに置かれた重い雑誌を手に取った。表紙には結婚式のお金、海外婚、結婚式のマナー……。確かに結婚が決まった人が見る内容だった。装丁から察するに女性が主な読者だろう。美帆もこういった雑誌を見るのだろうか。
美帆がどんなものを望んでいるのか分からないが、よほど派手な式でなければ問題ない。いや、それ以前に美帆の両親に挨拶に行かなければならない。
それに婚姻届も出さなければならないし、意外と色々やることがある。もう少し計画してから話すべきだったかもしれない。今更ながらそう思う。
「……プロポーズ断られるってあるんか?」
「さぁ……あんまり聞いたことないですど、元々結婚する気がなかったら断るかもしれませんね」
「そうなんか……」
「お相手の女性って何歳なんですか?」
「三十。俺の一個上やねん」
「三十ならまだ遊びたいって歳でもないでしょうし、断られることなんてないと思いますけど。真剣なお付き合いなんですよね?」
「そりゃもう」
「ならそんなに心配しなくてもいいんじゃないですか? プロポーズのことはもう一回やり直した方がいいと思いますけど」
美帆は本気で嫌がってはいないはずだ。それなら同棲だって断るだろうし、あんなに甲斐甲斐しく家事をしてくれるわけがない。ミスはよくないが、挽回はできる。今度はきちんと計画を立て実行しよう。
帰りしな、文也はスマホでそれらしい記事を調べた。結婚に関しては急いでいないから前向きな返事がもらえればいい。だが、同棲をしてどう思ったかは聞きたかった。
美帆は急いでいると思っているかもしれない。だが、自然に思ったことだった。実家のことや瀬尾のこと、色々あって、今よりもっと確かな形で近くにいたいと感じた。
美帆にとっても悪くないはずだ。お互いのことが好きで、この先も一緒にたいと思うのなら。
家に着くと美帆が先に帰っていた。すでに食事を作ってくれていた。見慣れてきた光景に微笑みながら、文也はキッチンに立つ美帆を後ろから抱きしめた。
「文也さん、危ないですよ」
「なんかええな。美帆がそこにおると嬉しいねん」
「きっと、すぐ飽きちゃいますよ」
「幸せが当たり前になるのは悪いことやないやろ?」
文也は母親がキッチンに立つ姿を見たことがなかった。料理はしていたが、食事する時間もまちまちで、兄も文也も部屋で食事していたため家族が揃って食事することはない。勉強の合間に差し出された食事は手の込んだものだったが、味などしなかった。
美帆といると本当の家族はこんなものなのかと思える。新しい経験だが、案外それが居心地がいい。きっと、美帆だからかもしれない。
食事を終え、のんびりしたあとお互い風呂に入って、十一時過ぎには就寝する体制になった。
同じ布団に入って肩が触れそうな距離で寝るのは数日目だが、慣れたり慣れなかったりだ。なんとなく眠りたくなくて起きていると、美帆がすっと向こうを向いた。
「美帆、まだ起きてるん」
声を掛けると、「起きてますよ」と聞こえた。
「慣れた枕と違うから寝られへんのちゃう?」
「そんなことないですよ。ちょっと、考え事してただけです」
「考え事?」
「結婚のことなんですけど……」
文也は思わず美帆の方を向いた。だが、美帆は背を向けているためどんな顔をしているか分からない。文也はただ「うん」と相槌を打った。
「あの……もし結婚するとなるとお互い家族を呼んで顔合わせするじゃないですか。文也さんのご家族は────」
「悪いけど、呼ばれへん」
考える間はなかった。文也は即答した。
「美帆にあんなことした奴やで。今だってどう思ってるか分かれへん。まあ仮に俺が呼んだとしても来おへんと思うけどな」
「でも……文也さんは寂しくないですか」
普通は両家揃って挨拶するものだということぐらい文也でも知っている。だが、こればかりは難しかった。仮にあの事件がなかったとしても、両親を美帆、そして美帆の両親に合わせるつもりはなかった。もちろん結婚式にも招待するつもりもないし、その後関わるつもりもない。実質、縁を切ったも同然だ。
だが、寂しさは微塵も感じていない。きっと寂しいと感じるのは期待している人間だけだ。津川家に期待したところで結果は変わらない。彼らは息子の結婚を祝う気などない。美帆たちが罵倒されるのは目に見えていた。
「俺は美帆がいたらええねん。だからそんなに気にせんでええよ。美帆の親には悪いけどな」
それきり美帆の方から声は聞こえてこなかった。寝てしまったのだろう。文也も睡魔に従って目を閉じた。
仕事を切り上げて昼食を食べに行こうと思っていた文也は、盛り上がっている輪の中を覗き込んだ。どうやら雑誌を見ていたらしい。
「なんや、えらい盛り上がってんな」
「あ、社長。それが、中村さん結婚するんですって」
「そうなん? よかったやん」
テーブルの上には広告でよく見かける結婚情報誌か置かれている。これから式場でも選ぶのだろう。
だが、一体何ページあるのか、雑誌とは思えない厚みだ。
「にしても、分厚すぎへんか。タウンページ並みやで」
「こんなのまだ少ないほうですよ。色々見なきゃいけないことたくさんあるんです。そういう社長は結婚しないんですか?」
「しようとしてんねんけどな。オッケーもらえてないねん」
「プロポーズは?」
「プロポーズ────」
あれはプロポーズになるのだろうか。結婚したい意思は伝えたから、プロポーズのはずだ。
「してないんですか?」女性社員達は揃って眉をつり上げた。
「してるんちゃうか」
「してるんちゃうかって……そんな不確かなのダメですよ。ちゃんと指輪渡してハッキリ言わないと! 回りくどいのはだめです!」
「……そうなん?」
「そりゃそうですよ。一生に一度なんですよ。適当にされたら結婚する気も失せます」
文也はようやく自分の過失に気がついた。そうか、どうりで美帆の反応が悪かったわけだ。指輪も何も渡さずに意思だけ伝えてもいけないのだ。
正直あの時は様子窺いするだけのつもりだったが、ああいうものは何度も言うとパンチが弱まって効果が薄くなる。もっと言葉を選ぶべきだった。
どうもこういうことに頭が回らない。これで断られたら最悪だ。
「ちょっとその雑誌見せてもらってええ?」
「社長、これは結婚が決まった人が見るものですよ」
「ええねん。女心分かってないから勉強させてもらうわ」
文也はテーブルに置かれた重い雑誌を手に取った。表紙には結婚式のお金、海外婚、結婚式のマナー……。確かに結婚が決まった人が見る内容だった。装丁から察するに女性が主な読者だろう。美帆もこういった雑誌を見るのだろうか。
美帆がどんなものを望んでいるのか分からないが、よほど派手な式でなければ問題ない。いや、それ以前に美帆の両親に挨拶に行かなければならない。
それに婚姻届も出さなければならないし、意外と色々やることがある。もう少し計画してから話すべきだったかもしれない。今更ながらそう思う。
「……プロポーズ断られるってあるんか?」
「さぁ……あんまり聞いたことないですど、元々結婚する気がなかったら断るかもしれませんね」
「そうなんか……」
「お相手の女性って何歳なんですか?」
「三十。俺の一個上やねん」
「三十ならまだ遊びたいって歳でもないでしょうし、断られることなんてないと思いますけど。真剣なお付き合いなんですよね?」
「そりゃもう」
「ならそんなに心配しなくてもいいんじゃないですか? プロポーズのことはもう一回やり直した方がいいと思いますけど」
美帆は本気で嫌がってはいないはずだ。それなら同棲だって断るだろうし、あんなに甲斐甲斐しく家事をしてくれるわけがない。ミスはよくないが、挽回はできる。今度はきちんと計画を立て実行しよう。
帰りしな、文也はスマホでそれらしい記事を調べた。結婚に関しては急いでいないから前向きな返事がもらえればいい。だが、同棲をしてどう思ったかは聞きたかった。
美帆は急いでいると思っているかもしれない。だが、自然に思ったことだった。実家のことや瀬尾のこと、色々あって、今よりもっと確かな形で近くにいたいと感じた。
美帆にとっても悪くないはずだ。お互いのことが好きで、この先も一緒にたいと思うのなら。
家に着くと美帆が先に帰っていた。すでに食事を作ってくれていた。見慣れてきた光景に微笑みながら、文也はキッチンに立つ美帆を後ろから抱きしめた。
「文也さん、危ないですよ」
「なんかええな。美帆がそこにおると嬉しいねん」
「きっと、すぐ飽きちゃいますよ」
「幸せが当たり前になるのは悪いことやないやろ?」
文也は母親がキッチンに立つ姿を見たことがなかった。料理はしていたが、食事する時間もまちまちで、兄も文也も部屋で食事していたため家族が揃って食事することはない。勉強の合間に差し出された食事は手の込んだものだったが、味などしなかった。
美帆といると本当の家族はこんなものなのかと思える。新しい経験だが、案外それが居心地がいい。きっと、美帆だからかもしれない。
食事を終え、のんびりしたあとお互い風呂に入って、十一時過ぎには就寝する体制になった。
同じ布団に入って肩が触れそうな距離で寝るのは数日目だが、慣れたり慣れなかったりだ。なんとなく眠りたくなくて起きていると、美帆がすっと向こうを向いた。
「美帆、まだ起きてるん」
声を掛けると、「起きてますよ」と聞こえた。
「慣れた枕と違うから寝られへんのちゃう?」
「そんなことないですよ。ちょっと、考え事してただけです」
「考え事?」
「結婚のことなんですけど……」
文也は思わず美帆の方を向いた。だが、美帆は背を向けているためどんな顔をしているか分からない。文也はただ「うん」と相槌を打った。
「あの……もし結婚するとなるとお互い家族を呼んで顔合わせするじゃないですか。文也さんのご家族は────」
「悪いけど、呼ばれへん」
考える間はなかった。文也は即答した。
「美帆にあんなことした奴やで。今だってどう思ってるか分かれへん。まあ仮に俺が呼んだとしても来おへんと思うけどな」
「でも……文也さんは寂しくないですか」
普通は両家揃って挨拶するものだということぐらい文也でも知っている。だが、こればかりは難しかった。仮にあの事件がなかったとしても、両親を美帆、そして美帆の両親に合わせるつもりはなかった。もちろん結婚式にも招待するつもりもないし、その後関わるつもりもない。実質、縁を切ったも同然だ。
だが、寂しさは微塵も感じていない。きっと寂しいと感じるのは期待している人間だけだ。津川家に期待したところで結果は変わらない。彼らは息子の結婚を祝う気などない。美帆たちが罵倒されるのは目に見えていた。
「俺は美帆がいたらええねん。だからそんなに気にせんでええよ。美帆の親には悪いけどな」
それきり美帆の方から声は聞こえてこなかった。寝てしまったのだろう。文也も睡魔に従って目を閉じた。