とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
第28話 Loneliness and Sorrow
 美帆はスーツケースを引き摺りながら必死に涙を堪えた。泣かないようにと口を引き結び、瞬きを止め、思考を止めた。涙が今にも溢れそうで、油断すると視界が滲んでしまう。

 ようやく家に辿り着くと、堪えていた涙がどっと溢れた。次から次へと涙が零れて頬をすぶ濡れにする。

 先程の文也の顔を思い出す。驚いた顔。戸惑ったような顔。そして、ひどく辛そうな顔。

 事前に考えていた「言い訳」は思いのほかうまく言えた。追求されなかったことが救いだ。文也は驚いて何も言えなかったようだが、あそこで切り返されていたらボロが出ていただろう。

 だが、言う方はたまったものではない。美帆は言葉通りの感情で発言したわけではなかった。

 丸井に言われてから散々悩んだ。本当にこのままでいいのか。自分は文也のそばにいるべきなのか。そしてその結果が先ほどの答えだ。

 自分のために、文也に家族を捨てさせるわけにはいかない。それが美帆の答えだった。

 結婚したくないだとか、一人の方が気楽だなんて思っていない。賑やかなのは好きだし一緒に暮らすなら誰かとがいい。そして出来ればそれは文也がよかった。

 文也との同棲生活は楽しいものだった。本当にこのまま一緒に暮らしてもいいと思えるほど。

 文也の帰りが遅いだとか仕事ばかりしているだとか、そんなことを気にしたことは一度もない。文也は随分気を遣ってくれたし、大変だと思ったことはなかった。 

 だから、《《ありもしない》》言い訳をして文也を説得するのは大変だった。結婚したくないと思うほどの理由など自分の中には存在しなかったのだから。

 文也はあんなに自分を好きになってくれた。それこそ結婚したいと思うほど。

 しかし、今となっては文也の思いは辛いだけだ。文也が努力してなんとかしようとすればするほどそれが痛々しく映る。罪悪感で胸が張り裂けそうだった。

「俺は美穂だけいればいいねん」。

 文也はすでに心の中で家族を切り捨てている。心を閉ざしてしまっている。だから《《他》》に家族を求めるのだろうか。家族と仲直りするタイミングを見失っているだけなのではないか。

 文也の家族が悪い部分もある。子供に責任を押し付けるのもそうだし、親としての許容を逸脱している。裏切られた文也が心を閉ざしてしまうのも無理はない。

 だが、また家族が繋がることが出来るのなら────。

 一瞬、美帆の頭に幸せな光景が浮かんだ。自分と文也と、出来るかどうかも分からない子供。家族三人が笑っている姿。けれどそれらはまだないもので、終わったものだ。
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